官渡の戦いと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 17:50 UTC 版)
建安5年(200年)正月、曹操は于禁に袁紹戦の先陣を任せ、自らは徐州で反逆した劉備を攻撃した。田豊は徐州で劉備と戦っている曹操の背後を襲撃するよう進言したが、袁紹は息子の病気を理由に遠征を許可せず、近くの延津を攻撃して于禁に撃退された。田豊は杖で地面を叩いて悔しがり、それを聞いた袁紹は田豊を疎んじるようになった。 同年2月、許都へ進軍しようとした袁紹に対し、持久戦を主張して懸命に諫止したが、袁紹は軍の士気を損なったという理由で田豊を投獄した。田豊が従軍しないと知った曹操は、「袁紹はきっと敗北するぞ」と喜んだ。 同年10月、田豊が危ぶんだ通り、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗した。その後、袁紹は田豊が自分を笑い者にするだろうと猜疑し、これを殺害してしまった。なお『三国志』袁紹伝の注に引く『先賢行状』によると、田豊と犬猿の仲であった逢紀の讒言が原因であったとしている。
※この「官渡の戦いと最期」の解説は、「田豊」の解説の一部です。
「官渡の戦いと最期」を含む「田豊」の記事については、「田豊」の概要を参照ください。
官渡の戦いと最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:00 UTC 版)
建安5年(200年)に官渡の戦いが始まると、淳于瓊は郭図・顔良と共に、白馬に駐屯する東郡太守劉延を攻撃したが、曹操軍により顔良、後には文醜を討ち取られるなど苦戦した。 同年10月、淳于瓊は兵糧輸送の任務を袁紹に命じられ、督将の眭元進・騎督の韓莒子・呂威璜・趙叡の四将を率いて烏巣に駐屯した。ところがその警備体制は充分ではなく、このことを離反した許攸が曹操に密告したため、曹操は淳于瓊の陣を急襲してきた。それでも淳于瓊は曹操軍の来襲によく対応し、袁紹も軽騎兵を烏巣への援軍に差し向けたため、一時は曹操の方が危地に陥る。しかし、曹操は決死の覚悟で強襲を続行したために、遂に淳于瓊軍は殲滅させられた。淳于瓊は曹操の部将楽進に斬られ、眭元進ら四将も曹操軍により尽く討ち取られた(『三国志』魏書武帝紀,魏書楽進伝)。 なお、『三国志』魏書武帝紀の注に引く『曹瞞伝』は、淳于瓊の最期について異説を掲載している(『曹瞞伝』では「淳于仲簡」とされているが、この人物は明らかに淳于瓊に該当する)。烏巣の陣を落とされた淳于瓊は、鼻を削がれて生け捕りとされてしまう。連行されてきた淳于瓊に曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである。何を問うことがあるのか」と答えた。その潔さを認め、曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首されたという。 烏巣の戦いの前に、沮授は淳于瓊を援護するため事前に蔣奇率いる別働隊を派遣し、曹操の奇襲に対応するよう進言していた。しかし袁紹はこれを受け入れず、後手に回る結果となった。こうして顔良・文醜に続き、袁紹は有望な軍指揮官を失った。
※この「官渡の戦いと最期」の解説は、「淳于瓊」の解説の一部です。
「官渡の戦いと最期」を含む「淳于瓊」の記事については、「淳于瓊」の概要を参照ください。
- 官渡の戦いと最期のページへのリンク