許攸
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若いころは袁紹や曹操と親しかった《崔琰伝》。袁術は何顒を憎んでいて「許子遠は凶淫の人であり、性質も行動も不純である。それなのに伯求(何顒)は彼と親しくしている」と非難したが、陶丘洪は「許子遠は不純ではありますが、危難に向かっては足の濡れるのを嫌いません。伯求は善人としては王徳弥を挙げ、危難を解決する者としては子遠を挙げているのです」と弁護している《荀攸伝》。 許攸は冀州刺史王芬や周旌らとともに豪傑どもと連繋し、霊帝を廃して合肥侯を擁立せんと企てた。その計画を曹操にも打ち明けたが、これには断られている。霊帝が河北の旧宅へと巡幸したさい、王芬らは黒山賊を鎮圧するため軍勢出動を許可を出されたいと言上した。このとき天に赤気が上るという妖兆が観測されたため、霊帝は出動停止命令を出して王芬を呼び返した。王芬は恐怖を感じて自殺し、計画は失敗に終わった《武帝紀》。 初平年間(一九〇~一九四)、袁紹が董卓の元を去って出奔したとき、許攸・逢紀は彼とともに冀州に入った。許攸はいつも座中にあって議論に参画していた《袁紹・崔琰伝》。 建安三年(一九八)、曹操はついに袁紹と対峙することになった。孔融は荀彧に告げた。「袁紹の領地は広くて軍勢は強い。田豊・許攸は智計の士であるが、彼のために策略を立てている。審配・逢紀は尽忠の臣であるが、その事務を仕切っている。まず勝つことは難しかろうな!」、荀彧が答えた。「袁紹は軍勢多しとはいえ法令が行われず、田豊は剛直で上の者に逆らい、許攸は貪欲でけじめがなく、審配は専制的であるが計画がなく、逢紀は決断力があるが自分のことしか考えない。この二人が後方の事務を仕切っているのだ。もし許攸の家族が法を犯せば放ってはおけまいし、そうなれば許攸が必ず変事を起こすだろう」《荀彧伝》。 五年、袁紹は精鋭十万人、騎兵一万人を選りすぐり、審配・逢紀に軍事を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥として許を攻めんとした《袁紹伝》。 八月、袁紹軍は官渡において曹操軍と対峙した。許攸は「公は曹操と戦ってはなりませぬ。早急に諸軍を展開して対峙するとともに、間道を通って天子をお迎えすれば事業を打ち立てることができましょう」と袁紹を説得したが、彼が「吾は何がなんでも、まず奴めを包囲して生け捕りにせねばならんのだ」と言うので、許攸は腹を立てた《武帝紀》。 対峙は百日余りも続いた。許攸は進み出て言った。「曹操の軍勢は少ないのに全軍挙げて我らと対峙しておりますから、許城下の留守はきっと足弱の者ばかりです。もし軽装兵を分遣して夜襲いたし、もし許が陥落すれば曹操を生け捕りにすることもできましょうし、もし奴らを潰滅させられなくても前後から翻弄することになり、必ず打ち破ることができます」。袁紹は採用しなかった《後漢書袁紹伝》。 ちょうどそのころ許攸の家族が法を犯し、審配が彼の妻子を逮捕した。また許攸は袁紹のために計画を立ててやることが不可能であるとも考えていたため、十月、ついに部曲をこぞって曹操に身を寄せた《武帝紀・荀彧・崔琰伝・後漢書袁紹伝》。曹操は許攸がやって来たと聞くと、裸足で飛び出して彼を迎え入れ、手のひらを撫でつつ笑いながら言った。「子卿が遠来したからには、吾が事業は完成だ!」《武帝紀》。 許攸は座に着くなり曹操に言った。「袁氏の軍勢は盛強ですのに、どうやって彼らと対峙なさるのですか?いま食糧はいかほどありますか?」、曹操「まだ一年は支えられるよ」、許攸「左様なことはございますまい。もう一度おっしゃってください!」、「半年は支えられる」、許攸「足下は袁氏を打ち破りたくはないのですか。どうして事実でないことを言うのでしょう!」《武帝紀》 曹操「さっきの言葉はただの戯れだ。その実、一ヶ月までなのだが、この点どうすればいいのだろう?」、許攸「公は孤立した軍で独り守っておられ、外に救援はなく、そのうえ食糧はすでに尽き果てており、これこそ危急の日でございます。いま袁氏の輜重車は一万乗もあり、故市・烏巣におりますが、駐屯軍には厳重な警戒がございません。いま軽騎兵によってそれを襲撃し、不意を突いて出て、その集積物資を焼けば、三日もせぬうちに袁氏は自壊いたしましょう」《武帝紀》。 曹操は大いに喜び、そこで歩騎の精鋭を選りすぐり、夜、間道に沿って出陣した。到着するなり屯営を包囲し、大いに火を放つと、陣中では驚いて混乱をきたした。これを大破し、将軍淳于仲簡の鼻を削ぎ落としたが、まだ死ななかった。曹操は心底から殺すまいと思っていたが、許攸が「明朝、鏡を見れば、こいつはいよいよ他人(への恨み)を忘れますまいぞ」と言ったので、彼を殺した《武帝紀》。 許攸は自分の立てた功労を嵩にして、ときどき曹操をからかうことがあった。いつも同席したときは身を正そうとせず、曹操の小字を呼びながら「阿瞞よ、卿は我を手に入れなければ、冀州を手に入れられなかったのですよ」と言うほどだった。曹操は笑いながら「汝の言葉通りだ」と言っていたが、内心では憎悪していた《崔琰伝》。 曹操は激怒して彼を討ち果たそうと思い、杜襲が諫言しようとすると出会い頭に「吾の計画は決まっている。卿はもう言うな」と言い放った。杜襲「殿下の計略が正しければ臣は殿下をお助けして計画を遂行いたしますし、殿下の計画が間違っていれば成功したものでも改めていただきます。殿下は出会い頭に物言うなとご命令されましたが、なんと部下の処遇に不明なことでありましょうか」《杜襲伝》。 曹操「許攸が吾を侮辱しておるのに、どうして放置しておけようか?」、杜襲「許攸がいかなる人物であると殿下はお考えですか?」、「凡人だ」、「そもそも賢者だけが賢者を理解し、聖人だけが聖人を理解するものです。凡人がどうして非凡の人を理解できましょうや?いま豺狼どもが道を塞いでいるのに狐狸を優先なさるならば、人々は殿下が強者を避けて弱者を攻めたと思い、勇であるとも仁であるとも取らぬでありましょう。いまちっぽけな許攸なぞにどうして神武を煩わせる必要がありましょうや?」。曹操はその通りだと思い、許攸を手厚くねぎらったので、許攸はすぐさま帰服した《杜襲伝》。 その後、曹操に随従して鄴の東門を出たさい、許攸は左右の者に「この家は我を手に入れなければ、この門を出入りすることはできなかっただろうな」と言った。それを報告する者がいて、ついに逮捕された。曹操は憎悪の深い性質で、許攸が旧交を恃みとして慎みがなかったので、誅殺した《崔琰伝》。 【参照】袁紹 / 袁術 / 王徳弥 / 王芬 / 何顒 / 合肥侯 / 顔良 / 孔融 / 周旌 / 淳于瓊(淳于仲簡) / 荀彧 / 荀諶 / 審配 / 曹操 / 田豊 / 杜襲 / 陶丘洪 / 董卓 / 文醜 / 逢紀 / 劉協(天子) / 劉宏(霊帝) / 烏巣 / 河北 / 官渡 / 冀州 / 許県 / 鄴県 / 故市 / 南陽郡 / 刺史 / 黒山賊 / 小字 / 謀主 |
許攸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 17:01 UTC 版)
許攸 | |
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後漢 | |
出生 |
生年不詳 荊州南陽郡 |
死去 |
建安9年(204年) 冀州魏郡鄴県 |
拼音 | Xǔ Yōu |
字 | 子遠 |
主君 | 袁紹→曹操 |
許 攸(きょ ゆう、? - 建安9年(204年))は、中国後漢時代末期の参謀、政治家。字は子遠。荊州南陽郡(現在の河南省南陽市)の人。
正史の事跡
初期の事跡
『三国志』魏書袁紹伝注に引く『英雄記』によれば、弱年の頃は袁紹や張邈と「奔走の友(心を許しあい危難に駆けつける仲間)」の交わりを結んだという。霊帝の時代、冀州の王芬と手を組み霊帝を廃して、合肥侯を帝に擁立しようと画策したが、失敗したため逃亡し、袁紹配下となった。建安4年(199年)頃には、田豊・荀諶と並び称されるほどの袁紹陣営の参謀となっている。
しかし、上記のように朝廷に対して造反を画策したこと、性格的に金銭への強欲な癖があったことなどから、進言が、袁紹に容れられることはほとんどなかったと言われている[誰によって?]。建安5年(200年)、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠許都と兵站路を襲撃し、曹操軍の死命を制する戦略を進言したが、受け入れられなかった。また、ほぼ時を同じくして、許攸の家族が法を犯したとして審配に逮捕されてしまった。
曹操軍の荀彧は「許攸は貪欲で身持ちが修まらない」、「審配と逢紀は、許攸の家族の犯罪を見過ごせない」と指摘していたが、まさにその通りの事態となった。
曹操への寝返りと最期
上記のことなどもあり、ついに袁紹を見限り曹操に寝返った。『三国志』魏書武帝紀には、許攸の強い物欲を袁紹が満足させることが出来なかったので、許攸は袁紹を裏切ったとある。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地烏巣の守備が手薄なことを教えて、奇襲をかけるように進言した。これが成功して烏巣は陥落し、楽進が淳于瓊を斬った(『三国志』魏書楽進伝)。なお、『三国志』魏書武帝紀注に引く「曹瞞伝」によると、鼻を削がれ捕えられながらも潔さを保つ淳于瓊を、曹操は性格を惜しんで処刑することを躊躇した。しかし許攸が「鏡を見れば我々を恨みますぞ」と進言したため、曹操は淳于瓊を処刑したとされる。ただし、「曹瞞伝」は史料としての信憑性に難があることを考慮する必要がある。
烏巣攻撃により、曹操軍の勝利は決定的となった。しかし許攸はその功績に驕り、また旧知(少年期の親友であったという)であったことから曹操に馴れなれしい態度を取った。しかも、自分が曹操に味方しなければ冀州攻略はできなかったといつも自慢したため、曹操は内心その態度を嫌悪した。建安9年(204年)、曹操は鄴を攻め落とし審配を斬った。許攸は鄴の東門を通った時、またしても「この男(曹操)はわしを手に入れられなかったら、この門を出入りできなかっただろう」と左右の者に自慢した。この発言を曹操に密告され、ついに処刑されてしまった。
人物像
上記の荀彧の評価に加え、袁術にも「貪婪淫蕩にして不純の人物」と侮蔑されている。ただ、平原郡の名士陶丘洪は、袁術の言う許攸の欠点を認めつつも「危難に立ち向かい、泥を被ることを厭わなかった人物」と、評価・弁護している。
物語中の許攸
小説『三国志演義』でも史実通り曹操に寝返っており、主に「曹瞞伝」を題材にその過程が描かれている。 死因については、曹操が史実と異なり許攸の自慢を笑って聞き流しているものの、代わりに腹を立てた許褚に殺害されている。つまり、曹操にとって許攸は最早、官渡の勝利のためだけに利用した用無しの存在であり、部将たちもその意図を知った上で、口うるさいだけの許攸を殺害したのだということになっている。
NHKでテレビ放送された『人形劇 三国志』では史実よりも長生きし、曹操に寝返った後はその側近となり、他の幕僚よりも存在感の大きい役柄となっている。徐庶が母親の敵を討とうと曹操を暗殺しようとした時はこれを返り討ちにする。また、赤壁の戦いでは徐庶の代役となって、龐統の連環の計を見破り、龐統の助言を用いて赤壁の敗戦から難を逃れる。
参考文献
許攸(きょゆう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:28 UTC 版)
袁紹軍の軍師。草を伸ばし敵を捕獲する術を使う。沮授と共に討伐隊に選ばれた。
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