烏巣急襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 18:27 UTC 版)
10月、袁紹陣営の許攸は膠着した戦線を打開するべく、軽装兵を用いて許都を襲撃することを説いたが袁紹に受け入れられず、また家族が罪を犯して審配に逮捕されたことで嫌気がさし、曹操陣営に投降してきた。許攸は烏巣(現在の河南省新郷市延津県)に宿営している淳于瓊が守る兵糧輸送隊の守備が手薄なことを教えて、そこに奇襲をかけるように進言した。曹操の側近の多くはこの許攸の発言を疑ったが、荀攸と賈詡はこの意見を支持した。そこで曹操は即座に行動を起こし、自ら楽進と歩騎5000人を指揮して淳于瓊軍を強襲した。 烏巣にいる淳于瓊が襲われたことを知った袁紹軍内では、郭図が「この間に曹操の本陣を攻撃すれば、敵軍は必ず引き返すでしょう。そうすれば、援軍を出さなくても解決できます」と言い、張郃は「敵陣は堅固なので勝てません。それよりも早く淳于瓊を救援するべきです」と言った。袁紹はこれに対して両方の作戦を採用し、軽装の騎兵隊を派遣して淳于瓊を救援させ、張郃・高覧に重歩兵の指揮を任せ曹操軍の本陣を攻撃させた。 曹操は淳于瓊軍と救援の袁紹軍軽騎兵隊を大いに撃破し、兵糧を焼き払った。眭元進ら4将は討ち尽くされ、淳于瓊は楽進に討ち取られた。 さらに烏巣救援を主張した張郃・高覧を曹操軍の本陣強襲に向かわせるという袁紹の無神経とも言える指揮が災いしたか(曹操本陣を易々と破ってしまえば郭図の献策が正しく、張郃の主張は誤りであったと実証してしまうため)、張郃と高覧による曹操軍本陣強襲は留守を預かっていた曹洪に防がれただけでなく、(淳于瓊が敗れたことを聞いた)張郃と高覧は袁紹を見限って曹操に帰服してしまった。 将が寝返り兵糧の多くも損失した袁紹軍は、大混乱に陥って河北へ敗走し、官渡の戦いは終わった。捕虜となった沮授は曹操に仕官を請われたが、沮授は家族が袁紹に仕えていることから死を願った。曹操は沮授を赦免して厚遇したが、ほどなく脱走を企てた沮授は斬首された。
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