曹操に仕官
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郭嘉は袁紹の下を訪れたが、袁紹の人格に失望し、既に袁紹に仕えていた同郡の辛評・郭図に袁紹の欠点を警告した後、仕官せずに去った。 郭嘉の同郡出身に戯志才という人物がおり、曹操の策謀の相談役として尊重されていたが、早くに亡くなっていた。曹操が戯志才の後継者を誰にすべきか、同じく潁川出身の荀彧に対し相談を持ちかけたところ、荀彧は曹操に郭嘉を推挙した。曹操は、召しだされた郭嘉と天下のことを議論し「わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と言った。また郭嘉も退出するなり「真に我が主君だ」と言って喜んだ。郭嘉を軍師祭酒(司馬師の諱を避けて軍祭酒と表記される)に上表した。 劉備が曹操の元に逃れてくると、曹操は劉備を豫州牧に任命した。ある人が曹操に対し、劉備を殺害するよう進言したが、郭嘉は高名な劉備を殺害することにより、曹操の評判が落ち、賢者が曹操に仕官することをためらうことを重視して、それに反対し、曹操に喜ばれた(『魏書』)。一方『傅子』においては逆に劉備の雄才、人心を得ていることを考えると人の下では終わらないと述べこれを除くように進言している。 198年、曹操は呂布を討伐した際、三戦三勝して呂布を籠城に追い込んだが、下邳を固守する呂布を攻めあぐねた。曹操が退却を決意しかけた時、郭嘉は荀攸と共に(「荀攸伝」)攻囲を継続することを主張した。思い留まった曹操は沂水と泗水の水を引き込み、下邳を陥落させた。 曹操が袁紹と一触即発の状況にあったとき、袁術は北上し青州の袁譚と徐州で合流しようとしていた。曹操は袁術に備えるため、徐州に劉備を派遣しようとした。郭嘉は程昱と共にその措置に反対した。結局、劉備が叛いたため、曹操は後悔したという(「武帝紀」)。 200年、南下を開始した袁紹と曹操は一大決戦に及んだ(官渡の戦い)。郭嘉もこの戦いに従軍した。曹操が袁紹と官渡で対峙している最中、孫策が許都を急襲する構えを見せたため、人々は戦々恐々となった。だが郭嘉は孫策が江東制圧を急ぐあまり、苛烈な粛清を行ない多くの人間から恨みを買っており、それを警戒してもいないため、近いうちに暗殺されるだろうと予測した。果たして孫策は、狩猟中にかつて殺害した許貢の食客に襲撃され重傷を負い、これがもとで命を落とした。 官渡の戦いで敗れた袁紹が病没した後、袁譚と袁尚が袁家の後継をめぐり争った。曹操は内紛につけこんで袁譚・袁尚と黎陽で戦い、これを破った。一気に袁家を滅ぼそうという諸将に対し、郭嘉は「袁紹は、袁譚と袁尚のどちらが後継者か指名しないまま死んだので、このまま攻撃して両者を団結させずとも、放っておけば後継者争いを始めます。南の劉表を討伐すると見せかけて変化が起こるのを待つのがよいでしょう」と語った。曹操がこの言を採用して撤兵し、劉表を攻撃するため西平に出兵すると、たちまち袁家は骨肉の争いを始めた。 後継者争いに敗れ、平原に落ち延びた袁譚が辛毗を派遣して曹操を頼ると、郭嘉は辛毗と対面しその使者としての役割を果たすことに協力した(「辛毗伝」)。曹操は袁譚の降伏を受け入れ、袁尚を破り鄴を陥落させた後、約束違反を咎めて袁譚を攻撃し南皮で斬り、冀州を平定した。郭嘉は洧陽亭侯に封じられた。
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