曹操の台頭とは? わかりやすく解説

曹操の台頭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)

三国時代 (中国)」の記事における「曹操の台頭」の解説

192年曹操兗州牧となり、兗州青州から来た黄巾賊の兵30万人非戦闘員100万人を自分配下納めて急激に勢力拡大した193年袁術正式な兗州刺史金尚を伴って曹操兗州攻めたが、青州兵を得て兵力整っていた曹操大敗し、さらに劉表背後絶たれたため、本拠地南陽郡捨て揚州寿春落ち延び寿春本拠地として割拠した193年劉虞公孫瓚攻めるが、公孫瓚敗れ捕らえられ処刑された。 193年曹操は父の曹嵩や弟の曹徳陶謙配下殺したとして、敵討ちのために徐州陶謙攻めて大勝したが、通過した地域多くの人を虐殺した194年陶謙は病に倒れ先年曹操侵攻の際に自分への援軍駆け付けた後に豫州刺史推挙していた劉備徐州を譲る意思示した劉備陶謙死去するとこれを受け入れた194年曹操親友張邈部将陳宮呂布迎え入れて曹操反逆し曹操領地である兗州大半呂布のものとなった。しかし、曹操部下荀彧夏侯惇程昱らが曹操本拠地守り抜き曹操呂布との激戦の末に兗州から呂布駆逐し兗州取り返した呂布徐州刺史劉備頼り劉備保護受けた194年馬騰韓遂劉焉らが長安李傕攻めたが、樊稠郭汜らに大敗した194年劉焉死去し劉焉の子劉璋益州となった195年袁術庇護にあった孫策は、父の孫堅服喪明けたため、袁術のもとに出仕して馬日磾の上表により懐義校尉に任命され江東へと進出して揚州刺史劉繇破った。また同時期に呉郡太守許貢破り呉郡丹陽郡一帯勢力築いたその後孫策揚州諸勢力勝利し急速に勢力拡大していった。 196年呂布徐州から劉備追い出し徐州を支配した。その後劉備呂布攻められ敗走し曹操のもとに身を寄せた196年李傕郭汜らは内紛起こし献帝楊奉とともに東に逃亡して、洛陽入った196年曹操荀彧董昭らの計略従い献帝曹操拠点である許に連れていった。曹操献帝道義的政治的な後ろ盾として使い政略有利に進めていった。以後、許は許都呼ばれる196年曹操屯田制開始している。 197年袁術皇帝自称するが、このことで袁術求心力失い部将離反招き、その勢力急激に衰えていった。孫策はこれを契機袁術からの独立決意し、完全な自立勢力となった曹操呂布袁術などを滅ぼし曹操反逆した劉備追い散らし河南から山東までの地域統一する一方袁紹公孫瓚滅ぼして河北山西領有し曹操袁紹とがにらみ合う態となった。両雄200年黄河南岸白馬官渡などで激突する官渡の戦い)。序盤曹操袁紹部将顔良文醜討ち取り優位に立つ。しかし、曹操軍本体袁紹軍本体戦いで兵力に勝る袁紹軍勝利し曹操官渡の砦に篭城した。袁紹豫州の諸郡に対し味方になるよう誘いをかけ、曹操軍後方劉備らを派遣し荒らし回らせると、曹操本拠地豫州支配維持さえ困難となり、窮地陥った。しかし、袁紹軍から投降してきた許攸計略用いて曹操袁紹兵糧庫奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに、曹操大勝利終わり中原での覇権確固たるものとした。 202年袁紹病死すると、曹操はしばらくは袁紹息子袁譚袁尚らを滅ぼすことに費やし黒山賊の張燕降伏させ、袁氏味方した袁紹の甥の高幹烏桓族を攻め下し袁紹の旧勢力吸収した曹操圧倒的な大勢力となり、南下乗り出す

※この「曹操の台頭」の解説は、「三国時代 (中国)」の解説の一部です。
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