曹操の台頭
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192年、曹操は兗州牧となり、兗州で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大した。 193年、袁術が正式な兗州刺史金尚を伴って曹操の兗州を攻めたが、青州兵を得て兵力が整っていた曹操に大敗し、さらに劉表に背後を絶たれたため、本拠地の南陽郡を捨て、揚州の寿春に落ち延び、寿春を本拠地として割拠した。 193年、劉虞は公孫瓚を攻めるが、公孫瓚に敗れ、捕らえられて処刑された。 193年、曹操は父の曹嵩や弟の曹徳を陶謙の配下が殺したとして、敵討ちのために徐州の陶謙を攻めて大勝したが、通過した地域で多くの人を虐殺した。 194年、陶謙は病に倒れ、先年の曹操の侵攻の際に自分への援軍に駆け付けた後に豫州刺史に推挙していた劉備に徐州を譲る意思を示した。劉備は陶謙が死去するとこれを受け入れた。 194年、曹操の親友の張邈と部将の陳宮が呂布を迎え入れて、曹操に反逆し、曹操の領地である兗州の大半は呂布のものとなった。しかし、曹操の部下の荀彧・夏侯惇・程昱らが曹操の本拠地を守り抜き、曹操は呂布との激戦の末に兗州から呂布を駆逐し、兗州を取り返した。呂布は徐州刺史の劉備を頼り、劉備の保護を受けた。 194年、馬騰・韓遂・劉焉らが長安の李傕を攻めたが、樊稠・郭汜らに大敗した。 194年、劉焉は死去し、劉焉の子の劉璋が益州牧となった。 195年、袁術の庇護下にあった孫策は、父の孫堅の服喪が明けたため、袁術のもとに出仕して馬日磾の上表により懐義校尉に任命され、江東へと進出して揚州刺史劉繇を破った。また同時期に呉郡太守許貢を破り、呉郡・丹陽郡一帯に勢力を築いた。その後も孫策は揚州の諸勢力に勝利し、急速に勢力を拡大していった。 196年、呂布が徐州から劉備を追い出し、徐州を支配した。その後、劉備は呂布に攻められて敗走し、曹操のもとに身を寄せた。 196年、李傕・郭汜らは内紛を起こし、献帝は楊奉らとともに東に逃亡して、洛陽に入った。 196年、曹操は荀彧・董昭らの計略に従い、献帝を曹操の拠点である許に連れていった。曹操は献帝を道義的・政治的な後ろ盾として使い、政略を有利に進めていった。以後、許は許都と呼ばれる。196年、曹操は屯田制を開始している。 197年、袁術は皇帝を自称するが、このことで袁術は求心力を失い、部将の離反を招き、その勢力は急激に衰えていった。孫策はこれを契機に袁術からの独立を決意し、完全な自立勢力となった。 曹操は呂布・袁術などを滅ぼし、曹操に反逆した劉備を追い散らして河南から山東までの地域を統一する。一方、袁紹も公孫瓚を滅ぼして、河北・山西を領有し、曹操と袁紹とがにらみ合う状態となった。両雄は200年の黄河南岸の白馬・官渡などで激突する(官渡の戦い)。序盤は曹操が袁紹の部将の顔良・文醜を討ち取り、優位に立つ。しかし、曹操軍本体と袁紹軍本体の戦いで、兵力に勝る袁紹軍が勝利し、曹操は官渡の砦に篭城した。袁紹は豫州の諸郡に対し、味方になるよう誘いをかけ、曹操軍の後方に劉備らを派遣し、荒らし回らせると、曹操は本拠地の豫州の支配の維持さえ困難となり、窮地に陥った。しかし、袁紹軍から投降してきた許攸の計略を用いて、曹操が袁紹の兵糧庫を奇襲してこれを焼き払ったことをきっかけに、曹操の大勝利に終わり、中原での覇権を確固たるものとした。 202年、袁紹が病死すると、曹操はしばらくは袁紹の息子の袁譚・袁尚らを滅ぼすことに費やし、黒山賊の張燕を降伏させ、袁氏に味方した袁紹の甥の高幹や烏桓族を攻め下し、袁紹の旧勢力を吸収した曹操は圧倒的な大勢力となり、南下に乗り出す。
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