曹操の軍師として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:36 UTC 版)
建安元年(196年)、長安から脱出した献帝をその本拠である許に迎えた曹操は、荀彧から荀攸の評判を聞き(「荀彧伝」)、書状を送り、荀攸を召しだした。荀攸は汝南太守、後に尚書に任命された。 曹操は荀攸の名声を聞いていたが、実際に会ってみて大変満足し、荀彧と鍾繇に対し「公達は並々ならぬ人物だ。 彼がいれば天下に何の憂いがあろうか」と語り、彼を軍師とした。 建安3年(198年)、荀攸は宛の張繡征伐に随行した。荀攸は曹操に向かって「張繡と劉表はお互いに助け合っているから、糧に困らず強力なのです」と言い、劉表の兵糧供給を断ち切ろうと進言したが、曹操は取り合わず、穣まで進軍した。張繡が危なくなると、劉表は荀攸の予想した通り張繡を救援し、曹操は負け戦となった。曹操は「お主の意見を用いなかったがためにこのざまだ」と悔しそうに取り合いながらも笑い、再戦では奇襲部隊を使って勝利した。 曹操の背後において、徐州の呂布が反乱を起こし、曹操の傘下であった劉備を攻撃した。このとき多くの者は、呂布を討つために引き返すと張繡と劉表に背後を突かれるではないかと心配したが、荀攸は呂布が勇猛で、かつ揚州の袁術の支援を受けていることから、反乱を起こしたばかりで勢力を糾合しきれていない内に討つべきだとした(『魏書』)。曹操は徐州の呂布征伐に赴き、下邳まで進軍した。呂布は三戦して全て敗れ下邳城に立て籠もった(下邳の戦い)。 曹操は下邳城を攻めあぐねて撤退しようとしたが、荀攸と郭嘉は、「敵軍の指揮を執る呂布は勇猛であるが知略に欠け、連続した敗戦で気力が衰えている」こと、また敵の参謀である陳宮は「智恵はあるが決断が遅い」ことを挙げ、「呂布の気力が回復し、陳宮の計略が定まる前に厳しく攻め立てれば、城は攻め落とせるだろう」と曹操に進言した。そこで曹操は下邳城を水攻めし、呂布を捕虜とした。 建安5年(200年)、曹操が袁紹と決戦した一連の戦い(官渡の戦い)で荀攸は大いに活躍している。 まず、前哨戦である夏4月(「武帝紀」)の白馬の戦いにおいて、袁紹の部下の顔良が劉延を攻撃したとき、荀攸は曹操に「囮軍を渡河させ、袁紹の軍を分散させる」策を進言し、顔良を孤軍の状態に追い込み、曹操に降伏していた関羽に討ち取らせた。袁紹の部下の文醜と劉備の追撃を受けると、今度は輜重隊を囮に使う策を進言し、罠にかかった文醜は討ち取られた(延津の戦い)。 その後、曹操は荀攸の進言に従って、徐晃と史渙に袁紹の部下の韓荀が指揮する輸送隊を攻撃させ、数千台の穀物輸送車を焼き払った(「武帝紀」)。徐晃を名指しで推薦したのは荀攸である。 戦局が膠着し始めると、袁紹の重臣許攸が兵糧守備隊の情報を持って降伏してきた。諸将はこの降伏を偽りではないかと疑ったが、荀攸は賈詡と共に許攸の意見を支持した。曹操は荀攸らの意見を汲み取り、即座に行動を起こし、自ら歩騎5000人を指揮して淳于瓊軍を強襲した(烏巣の戦い)。この奇襲で袁紹軍は兵糧を失った。 その後、袁紹の命令で曹操の本陣を攻撃していた張郃・高覧らが離反し、留守を守っていた曹洪に降伏を申し入れてきた。曹洪は疑ったが、荀攸は張郃が降伏を決意した事情を分析し、信じて受け入れるように勧めた。この前後に袁紹は逃走し、官渡の戦いは曹操の勝利で終わった。 202年夏5月(「武帝紀」)、袁紹が失意の内に死去した後、その子の袁譚と袁尚は後継者争いを始めた。曹操は黎陽に出陣し、秋9月(「武帝紀」)に一時的に和睦した袁尚・袁譚の連合軍を破った。荀攸はこの戦いに従軍している。 203年、曹操が劉表征伐に赴くと袁尚・袁譚の争いが再燃し、戦いに敗れた袁譚は辛毗を使者に送って降伏を申し出てきた。他の臣下らはなお強力な勢力を保っていた劉表征伐を優先するよう勧めたが、劉表は自守の賊であって野心が貧しいことと袁氏の力はまだ侮れず後継者争いが収まったら再び脅威となるであろうことから、荀攸は袁譚と袁尚の争いに乗じて袁氏の土地を奪って平定するよう進言した。曹操はこの意見に賛同し、袁譚と和睦し袁尚を撃破した。後に袁譚が背くと曹操は袁譚をも攻撃し、南皮において袁譚を滅ぼした。この戦いに荀攸も従軍している。曹操は荀攸の功績を上奏して称え、荀攸は陵樹亭侯に封じられた。 建安12年(207年)、曹操が袁氏と烏桓を滅ぼすため北方に遠征しようとした時は、荀攸らほとんどの臣下は、劉備が劉表を動かして背後を突くことを心配し中途したが、郭嘉のみが賛成している(「武帝紀」)。しかし、曹操が9月に袁氏と烏桓を滅ぼし、公孫康を降伏させて柳城から帰還したとき(「武帝紀」)、荀攸の宿舎に立ち寄って、前漢の高祖が張良にしたように、領邑で功績に報いることを約束したという(『魏書』)。曹操は論功行賞を行ったとき、「忠義公正で、緻密な計略を立て、国の内外を鎮撫した者としては、文若(荀彧)がこれに該当し、公達(荀攸)がその次に位置する」と述べ、荀攸の領邑を400戸加増し合計700戸にし、荀攸を中軍師に転任させた。 建安17年(212年)、曹操が九錫を受けて魏公となるのに協力した(「武帝紀」が引く『魏書』)。曹操が魏国を建国すると、11月に尚書・侍中・六卿を定めた。荀攸は魏(藩国)の尚書令となった(「武帝紀」が引く『魏氏春秋』)。 尚書令となった荀攸は、荀彧と同じように賢者や名士を推挙したので、曹操は「荀彧と荀攸の人物評価は、時が経つほど益々信頼できる。わしが死んだとしても忘れられまいぞ」と語った(「荀彧伝」が引く『荀彧別伝』)。 建安19年(214年)、曹操の孫権討伐に従軍しているときに病に倒れて、まもなく陣中で死去した。58歳であった(『魏書』)。曹操は荀攸の話をする度に涙を流したという。また荀彧とは違い、曹操との関係は終始良好であった。 子に荀緝(父の面影があった)と荀適の2人いたがいずれも若死して、子がなかったとして爵位は一時途絶えたが、黄初年間に孫の荀彪に爵位が与えられ、陵樹亭侯に取り立てられ300戸を領した。後に丘陽亭侯となった。 正始年間には敬侯と諡された。曹芳(斉王)の時代、詔勅により曹操の廟庭に24人目の功臣として祭られている。裴松之は、鍾繇を先にして荀攸を後にした趣旨は分からないと述べている。
※この「曹操の軍師として」の解説は、「荀攸」の解説の一部です。
「曹操の軍師として」を含む「荀攸」の記事については、「荀攸」の概要を参照ください。
- 曹操の軍師としてのページへのリンク