延津の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:01 UTC 版)
白馬の包囲を解いた曹操は、その住民を移住させ合流しようとした。袁紹はそれを阻止するため、将軍の文醜に渡河を命じた。文醜は劉備と共に延津の南まで来たが、ちょうどそのときに白馬からの輜重部隊がやってきた。曹操と荀攸はこれを利用し、文醜の軍の秩序が乱れたのを待って襲撃しようとした。果たして文醜の軍は略奪を始め、当初は5・6000人いた騎兵も600に満たない数まで減少した。これをみた曹操は文醜の軍に攻撃を加え、散々にこれを破り、文醜を戦死させた。 名将として知られていた顔良・文醜を一戦で斬った曹操軍の勇名は轟いた。
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