延期派の胎動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:34 UTC 版)
1881年(明治14年)、穂積陳重が英独留学から帰国し東大教授に就任。この時点ではボアソナードや仏法学にも好意的であった。 翌年、仏文の財産法草案(プロジェ)を検討。 明治15年に私が法学部で学生と研究会を開いて、当時公にされた『ボアソナード』氏の民法草案を基礎として、学生と共に討論研究することを始めた。然るに…『ボアソナード』氏の民法案の如き陳腐なる自然法主義に就て論究するよりは、一の学会を起して大いに法律学の振興を計る方が宜いと云ふやうな説が出で…今の法学協会なるものが起ったのである。而して当時土方、江木、奥田、三崎、渡邊、坪野等の諸氏は同会の設立に就ては非常に尽力されたのである。 — 穂積陳重「故奥田義人博士追懐録」1917年(大正6年) 以後、江木衷や奥田義人が延期派の中核を担う。三崎亀之助も院内論戦で活躍した。 1882年(明治15年)、加藤弘之(独法派・延期派)は『人権新説』を出版し、前年に絶版にしていた自著『国体新論』で採っていた天賦人権論を妄説として激しく批判。
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