延期決定とその後とは? わかりやすく解説

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延期決定とその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 06:51 UTC 版)

アシカ作戦」の記事における「延期決定とその後」の解説

ドイツ軍は、なんとか9月には準備整い作戦実施可能なところまで来た。ヒトラーは、情勢検討していたが、9月14日空軍状況報告芳しくなく、17日次の指示があるまで、アシカ作戦延期指示した。しかし、アシカ作戦そのもの中止になったわけではなくドイツ大軍英仏海峡沿いに駐屯したままだった。 英仏海峡海洋気象条件より1941年春までのアシカ作戦実施なくなった10月18日に、ヒトラーは、総統指令第18号発したが、この中でジブラルタル攻略フェリックス作戦)の準備進めることを述べとともに1941年春のアシカ作戦実施備えて引き続き三軍作戦準備継続改良求めている。と同時に陸軍へは、東部国境へのある程度部隊移送口頭指示したとみられている。 この時期ドイツは、スペインおよびソ連外交課題抱えていた。スペインとは、参戦ジブラルタル攻略について交渉続いていたが、10月23日ヒトラーフランコは、スペイン国近くアンダイエ直接会談した。この会談結果ドイツスペイン主張隔たり大きく合意に至る可能性が低いことがわかったソ連とは、ソ連との経済協定履行問題フィンランド問題ルーマニア問題ソ連三国同盟へ加入問題などがあった。独ソ間の交渉10月から11月末まで続いたが、最終的なスターリン三国同盟へ加入提案について、ヒトラーソ連要求過大だとして、ドイツ回答せず、交渉不調に終わった1940年12月18日に、ヒトラー総統指令第21号発しその中で1941年5月に対ソ開戦する準備正式に命じたこの後ドイツ軍徐々に東部国境移動した1941年6月22日に、バルバロッサ作戦ドイツ軍ソ連侵攻しアシカ作戦実施される可能性消滅した

※この「延期決定とその後」の解説は、「アシカ作戦」の解説の一部です。
「延期決定とその後」を含む「アシカ作戦」の記事については、「アシカ作戦」の概要を参照ください。

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