文醜
(?~200) |
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建安四年(一九九)、袁紹は精兵十万人・騎馬一万匹を選りすぐり、許を攻撃せんと企て、審配・逢紀に軍事を統括させ、田豊・荀諶・許攸を謀主(参謀長)とし、顔良・文醜を将帥とした《後漢書袁紹伝》。文醜は顔良とともに袁紹軍の名将として知られており《武帝紀》、このとき曹操のもとにいた孔融は「顔良・文醜の武勇は三軍に傑出しており、(彼らが)袁紹の軍勢を統率しているのだから、勝つことは難しかろう」と評している《後漢書荀彧伝》。 翌二年二月、袁紹は顔良らに白馬城を包囲させたが、顔良は曹操の手の関羽・張遼に敗れて死んだ《武帝紀・関羽伝》。曹操が白馬の軍勢を引き揚げて西方に移動したので、袁紹軍は黄河を渡って延津南岸の砦を占拠し、文醜が劉備とともに騎兵五・六千人を率いて曹操を追撃した《武帝紀・荀攸伝》。 ちょうど白馬城からの輜重隊が曹操陣営に入ろうとしたので、文醜は軍勢を分割して輜重隊を襲撃させた。そこで曹操は攻撃命令を出した。徐晃らの活躍もあり、文醜は陣形が乱れていたため戦死した《武帝紀・荀攸・徐晃伝》。これに先立って荀彧が「顔良・文醜は匹夫の勇に過ぎず、一度の戦いで手取りにできよう」と語っていた通りになった《荀彧伝》。 【参照】袁紹 / 関羽 / 顔良 / 許攸 / 孔融 / 荀彧 / 荀諶 / 徐晃 / 審配 / 曹操 / 張遼 / 田豊 / 逢紀 / 劉備 / 延津 / 許県 / 黄河 / 白馬県 / 将帥 / 謀主 |
文醜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 18:12 UTC 版)
文醜 | |
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後漢 騎将 |
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死去 | 200年(建安5年) |
拼音 | Wén Chǒu |
主君 | 袁紹 |
文 醜(ぶん しゅう、? - 200年)は、中国後漢時代末期の武将。
生涯
袁紹配下。袁紹軍の中では顔良と並んで勇将と称され、孔融が曹操に対して出兵を諌めたときには、将帥の代表として名が挙がっている。
建安5年(200年)、それまで睨み合っていた袁紹と曹操が激突し(官渡の戦い)、袁紹軍は白馬における初戦で顔良を討ち取られた。しかし曹操軍が白馬から引き揚げ、黄河に沿って西へ移動したため、袁紹はそれを追って黄河を渡り、南岸の延津に到達した。袁紹は文醜に対し、当時客将となっていた劉備とともに、曹操を追撃させた。
これに対して曹操は荀攸の策略を採用し、輜重隊をおとりにして文醜を誘った。文醜はこれに引っ掛かり輜重隊を襲ったため、このことが元で陣形が乱れた。曹操はこの機会を逃すまいと、手薄になった文醜の部隊に攻撃を仕掛け、文醜を混乱の中で戦死させた。顔良・文醜と名だたる将軍2人を立て続けに失ったことで、袁紹軍は大きく動揺したという。
曹操軍の荀彧は、上記の孔融に対し「どれだけの武勇であろうと、顔良と文醜は所詮は匹夫の勇。一戦にして生け捕れます」と述べたが、まさにその通りとなった。
演義
小説『三国志演義』では、身の丈8尺、顔は獬豸(かいち、伝説上の神獣)のような姿とされる。顔良とは兄弟同然の親友という設定。
界橋の戦い前後から登場する。界橋の戦いで公孫瓚に向かって突進し、後一歩でこれを生け捕るところまで追い詰めるが、袁紹の下から出奔していた趙雲に阻まれ取り逃がしている。
白馬の戦いで顔良が討ち取られると、仇を討つために劉備と共に出陣し、史実同様に輜重隊の罠にかかり敗走する。しかし、追撃してきた張遼を弓で射落とし、さらに徐晃をも退けている。だが関羽には打ち負けて、逃亡時に追撃を受け背後から斬殺されてしまう。
参考文献
文醜(ぶんしゅう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 06:28 UTC 版)
沮授と刎頸之友の将軍。「上賢の戦戯」で蘭と一騎討ちになり、左手を失う。
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