文部行政の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
文部省の外局である教学局は『国体の本義解説叢書』全13冊を1937年12月から1943年3月にかけて刊行する。この叢書は文部省『国体の本義』の思想を拡充するものであり、例えば紀平正美『我が国体における和』(1938年3月刊)には、日中戦争全面化を踏まえて、次のように説く。 天に代つて不義を討つ、忠勇無双の我が兵が、歓呼の声に送られ、すでに父母の国を出で立った時に、もはや私(わたくし)はない。私の父母もなければ、私の家も、私の業務もない。ただ公(おおやけ)の祖先があり、父母があり、家があり、郷里があり、国があり、最後に天皇が存します。かくて心の内は如何に豊かに、いかににぎやかであろうかよ。〔…〕我が神国日本の将卒のみには、天に代っての将卒でなく、直接に自らが神兵である。かかる大和合(だいわごう)の力こそ、常に十数倍の敵に対してよくその守りを失わず、彼の隙に乗じては、攻撃に転じ、更に彼を制圧し、進んで追撃に移る。追撃又追撃、敵に少しの余裕をも与えない。 1938年7月には国民精神文化研究所の思想国防研究部が小冊子『国体の本義に基く政策原理の研究』をまとめる。これは「大御心の奉戴と臣民の精神の徹底とからする国体の把握は、直ちに我が国の具体的な諸問題についての原理的な見解と対策とを与える」という観点から「大学刷新問題」などを論じる。大学を「かつては多くの共産主義者を簇出せしめ、非常時下の現在なお自由主義、人民戦線思想培養の最大の温床」として敵視し、次のような大学改造を急務とする。それは、国体と学問との本質的関係を究明し、反国体的教授を即時に罷免し、諸教授に対し自己の国体観を確立するとともに国体の原理に基づく専門諸学体系を樹立することを要求する、というものである。 1938年8月国民精神文化研究所が人員を5名増やす。前年11月に国体明徴運動への対応として法政科の拡張を求めたが内閣法制局に反対されて停滞していたものを、日中戦争の進展をふまえて思想国防を理由の前面に出して内閣法制局の了解を取り付けたのである。官制改正案の理由書に「支那事変に際し思想国防の緊要性に鑑み、憲法学その他法学・政治学等にわたり我が国体を本として研究を進め思想国防に資せんがため」とされ、法制局も「今回の増員は差し当たり今次事変に因って発生したる思想国防の事務のため特にこれを認める」とする。国民精神文化研究所は調子に乗って思想国防に邁進する。 1938年11月荒木貞夫文相は天皇に上奏して、「長期にわたる戦争情態において最も恐るべきは思想の動揺」であるから、「共産主義等の誤れる思想はこれを徹底的に是正し、万邦無比なる皇国の道より生まれ出づる大中至正の思想に徹底」し、「国体を基とする世界的大国民の錬成」を教育の根本とすると説明する。 文部省は一部の新興宗教をも国体観念から批判する。1938年12月に教学局企画課が作成した文書「思想問題より見たる邪教」は、「邪教が国民の国体観念を紊し(みだし)、社会風教上に流す種々の害毒は著しく、国民精神を総動員すべき非常時にあたり我が教学の本旨に鑑みて、厳しき批判を要する」として、大本教・ひとのみち教団・天理本道などの教団を列挙する。 1939年の初め、文部省が東京帝国大学経済学部教授河合栄治郎の著書をチェックした形跡がある。教学局の嘱託員が、河合の著書『経済学原論』について文部省『国体の本義』に背く思想表現箇所に全て赤線を引くように指示されたのである。はじめこの指示を受けた嘱託員は、この仕事に矛盾を感じ、次第に良心の呵責を受けるようになり、上司に申し出てこの仕事を変えてもらったという。同年1月に河合に対する文官高等分限委員会が開かれる。委員長は平沼騏一郎首相である。事前に委員へ送付された休職理由書には「国家思想を否認し我が国体観念に背反し、いたずらに憲法の改正を私議し国民道徳を破壊せしめんとするがごとき意見を発表し、さらにこれを教授する」とされていた。委員会では河合について「一日も大学に置くことは危険であるから直ちに休職を希望いたします」という意見に全会一致して休職が決定する。 1939年5月各道府県に思想対策研究会を設置することが教学局長官名で通牒される。その趣旨は「今次事変が特に思想戦たる意義を有する点より考え、単に共産主義その他反国家思想を防遏するに止らず、更に積極的に国民各層に国体・日本精神の透徹具現を図り旺盛なる精神力を培養し、もって国民思想の動揺を未然に防止し戦時ならびに戦後の事態に処す」とされる。 1939年4月には学生を大陸に送って勤労させる「興亜青年勤労報国隊」の具体案が決定される。文部省が同年7月に『週報』に載せた「興亜青年勤労報国隊に就いて」は「興亜精神は国体観念と相互に反射し映発して、日本教学はこの新たなる背景と脚光の中に其の具体的な映像を鮮明に次代に浮き上らすべきを信ずる」と述べる。 1940年3月国民精神文化研究所が人員を8名増やす。増員分は「国体に基づく東亜新秩序原理の研究」「日本世界史の編纂」「思想家、評論家、学者の思想調査資料の作製」「国体日本精神より見たる支那事変の世界史的意義の編纂」に当てる計画である。
※この「文部行政の展開」の解説は、「国体」の解説の一部です。
「文部行政の展開」を含む「国体」の記事については、「国体」の概要を参照ください。
- 文部行政の展開のページへのリンク