文部行政への貢献
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明治41年(1908年)第2次桂内閣で文部大臣および農商務大臣臨時代理に就任。韓国皇帝より勲一等太極章を受章。明治43年(1910年)、「図書館設立ニ関スル訓令」を公布。明治44年(1911年)、「高等中学校令」(勅令第217号)を公布。大正元年(1912年)、「図書館管理法」を公布。明治45年(1912年)から大正8年(1919年)まで東洋協会専門学校(後の拓殖大学)第2代学長を務める。 文部大臣としては南北朝正閏問題や大逆事件後の処理をはじめ、仮名遣い改正問題や東京高等商業学校における「申酉事件」の処理などにあたった。小松原は高等商業学校の単科大学への昇格案には、一貫して否定的であった。更に次のように力説した。 「 日露戦争後の社会の風潮は、「浮華軽佻」に傾き、学生、生徒もこれに「感染」して、贅沢、無規律、無節制、「師父」に仕え「長上を敬う」師道の衰退、「學校騒動」、「不健全」な小説、雑誌、「劣情」を生んでいる。 」 また、図書館の普及を目指して「図書館設立ニ関スル訓令」を公布して全国に図書館の設置を奨励したが、小松原及び文部省の意図は図書館は「国民教化」を目指すものであり図書館そのものの向上よりも統制を図ったものとして、図書館界との対立を招くことになる。更に中学校・高等学校のギムナジウム化を目指して中等科4年・高等科3年の7年制の高等学校設立を計画するが、枢密院などの反対によって骨抜きにされた「高等中学校令」制定に留まりそれすらも小松原の辞任後に施行中止とされた。小松原の計画は臨時教育会議を経て大正6年(1917年)の高等学校令改正(翌年公布)で実現化される。臨時教育会議で小松原を高等普通教育に関する部会に配属して議論を主導させたのは、小松原の無念を知る当時の文部次官であった岡田良平文部大臣の配慮であったという。
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