文部次官
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若くして官界から身を退かねばならなかった成三の手腕は、当時の政府から非常に高く評価されており、長い間内務省の先輩として目をかけてくれていた増田甲子七氏らの推挙もあり、まもなく文部次官に起用されることになった。若狭出身者として初めて、官界のトップの座を占めたのである。しかし、昭和24年1月26日、法隆寺金堂壁画の壁画保存のため、模写作業の行われている現場から出火し、世界的な仏教壁画の傑作を焼失する事件が発生した。国家的大事業であるその仕事の総括責任者は文部次官であるので、成三は道義的な責任をとって、次官を辞職することになってしまった。こうして惜しまれながら再び官界から身を退いたのである。成三の次官在任中、若狭ではナタオレの木やムサシアブミ、タイミンタチバナ等の暖地性植物の北限地として注目されていた小浜湾の蒼島と、昔から藤の森とも呼ばれた小浜市湊、釣姫神社のフジの巨木とを国の天然記念物として指定してもらうよう運動をはじめたが、、成三はそのためにも大いに尽力し、両方とも昭和26年6月9日、文部大臣から国の天然記念物として指定された。
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