教学局の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
1937年7月、文部省の思想局が廃され、外局として教学局が創設される。教学局官制第1条に「教学局は文部大臣の管理に属し国体の本義に基づく教学の刷新振興に関する事務を掌る」とされる。これより先、前年10月の教学刷新評議会が答申を出し、教学の刷新振興・監督に関する重要な事項を掌理させるために有力な機関を文部大臣の管理下に(すなわち文部省外局として)設置することを提唱する。局長は文部次官級の人物を充て、これを長官と称する。1937年6月の教学局官制案の理由書に「我が国現下の趨勢に鑑み我が国体の本義に基づく教学の刷新振興を図るは喫緊の要務なり。しかるに現在の思想局の機構をもってしては十分にその機能を発揮すること能わざる」とされる。枢密院の審査委員会では、こんな小規模でなくもっと大規模にしろとか、長官を親任官(大臣級)にしろとか、参与を勅任待遇に格上げしろとかいう要望が出される。これは教学刷新に対する為政者層の強い意思を表している。 教学局は不振に陥る。創設後1年半を過ぎたころから「無為状態」「肥立ちの悪い」「盲腸化」などというような低評価が定着するのである。局内部のある嘱託員は戦後に「教学局は本質的には、教育行政の元締めとして、国の軍国主義化の一翼を担っていたわけであるが、私達は誰も積極的にはそれに力を貸そうとは考えなかった」として「当時の文部省の右翼的雰囲気に対する若者たちのささやかな抵抗」を語っている。教学局不振の原因は「教学局が過去の思想と精神との亡霊に禍されている」といわれる。具体的には文部次官伊東延吉の影響である。当時から「伊東イデオロギーが厭というほど浸潤し、その人的機構もまた伊東の胸一つで、その子飼の人物で固められている」とか、「伊東自身が長官であったら教学局ももう少し活発に働きかけたろうが、いたずらに人ばかり多くて何の仕事も出来てない」とかと批判されている。伊東文部次官は1938年12月に更迭される。
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