教学局『臣民の道』
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1941年7月、教学局が『臣民の道』を刊行する。同書については、『国体の本義』の実践的奉体を意図した姉妹編という評価が通説的である。『臣民の道』は解説書を含めると『国体の本義』を上回る約250万部が刊行されており、一般国民に広く普及される。当初は前年の第2次近衛内閣「基本国策要領」に則り、「真に国体に徹したる翼賛運動と国民道徳」の「実践的指導書」として自我功利の思想を排し国家奉仕を第一義とする国体具現の道徳解説書を刊行して、これを教職員その他の指導階級に必読せしめたく」という企図であり、実践書でなく指導書という位置づけであり、対象読者は一般国民でなく指導層であり、また『国体の本義』の姉妹編という意識もなかった。 編纂途中で対象読者を指導層から一般国民に広げることとなり、刊行計画の発表時には「”国体の本義”姉妹篇に 平易な“臣民の道”」という見出しで報じられ、当局者は談話で、先の『国体の本義』は一般国民の読み物として難しいとの評があったが今度は誰でもわかるように編纂する、と語る。教学局版の刊行後まもなく近衛文麿首相の題字により『註解 臣民の道』が刊行される。解題で『臣民の道』の内容を次のように要約する。 第一章において世界新秩序の建設という今日の課題をとりあげ、世界史の転換をとき、その中から皇国日本に立脚する新秩序の建設をといて皇国の重大なる使命をとき、国防国家体制確立の急務をといている。 第二章はこういう皇国の当面している位置の上にたって、皇国の国体と臣民の道とを解明している。「万世一系の天皇、皇祖の神勅を奉じて永遠にしろしめし給う」国体と、「臣民は億兆心を一にして忠孝の大道を履み、天業を翼賛し奉る」臣民の道と明らかにしているのである。そうして我国においては忠あっての孝であり、忠を大本とする所に臣民の道があるのである。次に国体にもとづき臣民の道を履践した祖先の遺風をば皇国の歴史上の事実から明らかにしている。皇国の歴史は肇国の精神にもとづく国体の顕現の歴史であるとともに臣民の道の履践の歴史でもあるのである。そうして国体をはなれて臣民の道はなく、天皇に絶対随順し奉ることをはなれて日本人の道はない。 第三章はかくの如き臣民の道の実践をば、現実の国民の課題として説いて居る。〔以下略〕 『臣民の道』刊行直後に教学局長官は講話で「まさにこの臣民の道というものこそはこの国体の本当の意味合い、精神というものを我々の生活に具現することであり、我々の生活の中にこそ我が国体の姿というものを生かして行かねばならぬ。生かすではない、それを践み行なう事こそ我々皇国臣民としての道」であると述べる。 『臣民の道』は4年前の『国体の本義』の姉妹篇と位置づけられるものの、その間の時局の進展により両書の性格は大きく異なる。第1に思想統一の程度が異なる。『国体の本義』では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、もって新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献する」と説いていたが、『臣民の道』では欧米思想を全否定し、「我が国民生活の各般において根強く浸潤せる欧米思想の弊を芟除〔切って捨てること〕」すると断定する。第2に忠と孝との間の関係が変化する。『国体の本義』では忠も孝も同等に扱い、「忠孝一本は我が国体の精華」であり「われら国民はこの宏大にして無窮なる国体の体現のために、いよいよ忠に、いよいよ孝に励まなければならぬ」と説いてたが、これに対し『臣民の道』は忠を孝より優先し、「そもそも我が国においては忠あっての孝であり、忠が大本である」と断言する。こうした違いは編纂をとりまく状況の違いに由来する。『国体の本義』が天皇機関説事件を契機に国体明徴のために編纂されたのに対し、『臣民の道』は日中戦争が長期化する中で新たに大東亜共栄圏の構想のために編纂されたからである。
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