審査委員会
審査委員会
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この問題は国際連盟でも取り上げられ、事件は二国間問題から国際問題へと変化した。9月4日、イタリアは脱退をちらつかせて国際連盟の関与を拒否した。9月7日、大使会議はイギリス・フランス・日本の代表から構成される審査委員会を設置し、この問題を処理することとなった。日本は国境劃定委員会に参加していなかったため、審査委員会への参加を回避しようとした。しかしイタリア側はベルギー代表の参加が自国に不利になると拒絶した。また、イタリアは自国の代表を委員長にしようと工作したが英仏に拒否され、結局第三者的立場にある日本の参加が求められた。連合国大使会議の石井菊次郎大使はフランス大使館付武官の渋谷伊之彦大佐を委員長として推薦した。国際連盟理事会ではイタリアの横暴な態度に対する批判が高まったが、フランス代表は様子見を決め込み、ブラジル代表はイタリアを支持した。 9月6日大使会議は「在アテネ英仏伊代表者に対するギリシャ最高軍憲の謝罪」「被害者の葬儀をアテネのカトリック寺院で、閣僚出席の元で行う」「葬儀後、入港した英仏伊三国軍艦に対して二十一発の礼砲を撃つ」「犠牲者の遺骸を乗せる軍艦に対して礼を払う」「ギリシャ政府は捜査と犯人処罰にあらゆる措置を執ることを約束する」「英仏伊日四国委員会がギリシャ政府の捜査を監督する。捜査の必要性によってはアルバニア領内への立ち入りやアルバニア官憲の協力も許可する」「ギリシャ政府は大使会議の承認を得た委員会報告書に基づいて、国際司法裁判所が決定した賠償金を支払う。支払いの保証として、ギリシャ政府はスイス国立銀行に5千万リラを供託する」という新たな7条件を策定し、ギリシャ政府もこれを了承した。これにより、9月10日に大使会議は、捜査開始から5日後の段階で委員会が「ギリシャ政府が捜査にあらゆる措置を執る」という第五条件が達成されたと認めた際にはイタリア政府に通告し、ケルキラ島撤退に関する声明を行うという決定を行った。また第五条件が達成されない場合には、英仏伊三国による新たな制裁案をケルキラ島占領に変わって行うこととされた。
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審査委員会
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初年の1936年から候補者への投票は10人までに制限された。審査委員会は1962年に創設され、1968年から候補者を40人までに制限した。
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審査委員会
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ラッサール神父はまず、早稲田大学の教授で早稲田大学カトリック研究会の顧問をしていたカトリック信者の今井兼次に相談した。相談を受けた今井は審査委員会を組織し、建築界からは堀口捨己、吉田鉄郎、村野藤吾、今井兼次の4名、教会側からはフーゴ・ラッサール、グロッパ・イグナチオ(イエズス会の教会建築士)、荻原晃(カトリック広島使徒座代理)の3名が入り、後援者側から朝日新聞社員1名を付け加えて計8名の陣容を整えた。この今井の人選が後の審査結果に微妙な影響を及ぼすことになる。 堀口捨己、吉田鉄郎はいずれも大正時代に表現派として出発した建築家で、その後昭和期に入って表現派からバウハウス派に転向したが、村野藤吾と今井兼次はバウハウスの箱型モダンデザインの影響を受けながらも、あえて確信犯的に表現派に留まった建築家であった。丹下健三の東京大学時代の恩師であり、またその引き立て役でもあった当時の日本建築界最大の実力者岸田日出刀を外したこの今井兼次の人選は、世界平和記念聖堂が今日の姿で在ることに関して、歴史的に言ってまことに絶妙なものであったと言えるのである。 村野藤吾が属する後期表現派と丹下健三が属したコルビュジエ派は、バウハウスが主導したモダニズム建築の流れにありながらもそれに棹さすことなく、反バウハウスのスタンスをとるという点では一致していた。ともにバウハウス流の機能主義的な四角四面のつるっとした白い箱型建築を、「薄っぺら」あるいは「衛生陶器」と見なす建築家たちであった。しかしながらバウハウス流の新即物主義によってもたらされる近代建築の機械的非人間性を打開し、建築に人間的な内実の豊かさを取り戻すために両者がとった戦略は、全く正反対と言ってよいものであった。 最初はバウハウス流のピュリスムの純粋な白い箱から出発したル・コルビュジエではあるが、のちにコンクリートの可塑的な造形力の大きさに着目し、建築デザインの細部に至るまでを単に機能から導き出すのではなく、コンクリートや鉄のダイナミックな構造力学的対応力のなかに、つまり構造的な技術革新の中に芸術表現の自由さを見出そうとした。建築が建築技術によって文明に革新をもたらすだけでなく、現代アートにまで高められた自由な建築表現によって社会にインパクトを与え、それが人間性の内面の解放をも果たすと考えたのである。かつて歴史主義建築はそのアナクロニズム(時代錯誤)にもかかわらず、大衆に強くアピールする象徴性と記念碑性だけはたっぷりと持っていた。コルビュジエは、構造的なダイナミズムとコンクリート打ち放しに代表される自然素材の荒々しい実在感によって、その記念碑性や超越性をモダニズム建築に取り戻そうとしたのである。このコルビュジエの革新的理論「建築をめざして」とその作品群に反応したのが前川國男であり、丹下健三といったいわゆるコルビュジエ派であった。 一方で、恐竜のような歴史主義建築を建築界から葬り去ったヘルマン・ムテジウスの新即物主義を金科玉条とするバウハウス流の抽象的デザインの影響を受けつつも、ただ規格化や合理主義をひたむきに押し進めるのではなく、モダニズム建築を可能にした鉄やガラスやコンクリートなどの建築材料を用いながら、そこに工業的でない工芸的な肌触りや風合いに満ちた濃いテクスチャー表現を残そうとしたのが後期表現派である。建築を産業主義的に捉えるのではなく、ある種歴史主義建築とも共通する伝統的な総合芸術のままに留め置こうとしたのである。建築を社会の機能表現ではなく人間の内面からの芸術表現と見るのが表現派の表現派たる所以であり、工業化や規格化によって非人間性に傾きがちなモダニズム建築に、暖かみのある手技や手跡といった人間的な手がかりをあえて付け加えようとしたのが日本の後期表現派であった。その一人に今井がいて、また戦前において1931年(昭和6年)の森五商店によって後期表現派という流れを確立し、つづくそごう大阪店や宇部市渡辺翁記念会館で後期表現派の中心的人物となっていったのが村野藤吾その人であった。 仕上げの味わいと細部に至るまでの職人技こそが、機械的で合理主義的な近代建築と人間とを繋ぐ最後の生命線であるというこの後期表現派の確信は、いかに建築技術が産業的に高度化されようともそれだけはどうしても譲ることが出来ないものであった。工業と工芸、構造と手法、技術革新と職人芸、都市的スケールと人間的スケールの対立軸が、ともにモダン陣営の中に立ちつつも常に相入れないものとして、丹下健三と村野藤吾との間に伏流し続けていたのである。これは竣工した時の「新しい時が最も美しい」建築と、竣工ののち時を経ても味わいが増し「美しい風化もありうる」建築との対立、あるいは場の記念碑性によって空間軸を制覇するか、それとも建築の軸足を時間軸に置くかの対立でもあった。
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