文部大臣罷免
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1986年、第3次中曽根内閣で文部大臣に任命されるが、入閣直後に歴史教科書問題に関連して「戦争で人を殺しても殺人(罪)には当てはまらない」「東京裁判は勝者の裁判であり不当。」「韓国併合は合意の上に形成されたもので、日本だけでなく韓国側にも責任がある」等の対談中の発言が月刊誌『文藝春秋』(1986年10月号)に掲載され、野党をはじめとする左派から「放言大臣」と非難された。大韓民国や中華人民共和国の反発を憂慮した中曽根首相は、藤尾の自発的な閣僚辞任を求めるが、藤尾が「発言を問題にするのであれば罷免すればよい」と主張して辞任を拒否したため、中曽根は罷免権を発動し、藤尾文部大臣を罷免した。 この際、官邸は前もって対談における藤尾の発言内容を把握しており、内閣官房長官後藤田正晴は9月3日(10月号は9月10日発売)に、文藝春秋に外務省アジア局長の藤田公郎を派遣。藤田は文藝春秋に対し、2か所の削除、訂正を申し入れたが文藝春秋側(当時編集長は堤堯)はこれを拒否し、内容証明をもって中曽根首相、後藤田官房長官に対し事前検閲であり憲法違反だとして抗議を行った。 藤尾自身は後年、この発言について「(風見鶏と揶揄されていた中曽根の)その場しのぎの外交に一石を投じる意図であえて行った」と主張した。中曽根が藤尾を罷免したことについて、小林よしのりは『戦争論2』のなかで「中曽根は韓国のご機嫌を取るために藤尾氏を罷免」したと述べている。一連の言動から藤尾を「信念の人」として評価する声がある一方、この発言により韓国や中国から「極右妄言政治家」として見られるようになった。 なお、罷免された直後に自身の発言の反響や、記者時代の回想をも交えた「放言大臣 再び吠える」が文藝春秋(1986年11月号)に掲載され、同稿は翌年に文藝春秋読者賞を受賞した。翌1987年6月に、評伝『剛直怒濤の現代政治家藤尾正行 それからの100日 近代日本の歪みを衝く』(近代政経研究会)が出版された。 当時、同じ安倍派の議員だった亀井静香は「背景にはそもそも、中曽根さんの日和見的な行動に対する、藤尾さんの疑念やわだかまりがあったのだと、俺は見ている。佐藤内閣後の総選挙で、角さんと福田さんが決選投票で一騎打ちになったときだ。それまで福田さんは、同じ上州の中曽根さんは必ず応援してくれると思っていた。ところが角さんからのカネになびいた中曽根さんは直前で田中支持に回り、福田さんは敗れてしまった。恩師が裏切られているのを間近に見ていた藤尾さんは、実に無念だったに違いない。大平内閣不信任決議で大平さんに退陣要求をした中曽根さんがやってきてこう演説をぶった。「君たちのやっていることは正しい。いい決心だ。」ところがだ。さっきまで一心同体と思っていた中曽根さんは議場に入るなり、不信任反対票に投じたんだ。結果、俺たち福田派が欠席したために、採決は可決され、納得できない大平さんは衆議院を解散、いわゆるハプニング解散になったが、中曽根さんの変節っぷりに派内は皆唖然としていた。おそらく次期総裁を睨む中曽根さんからすれば、田中派に恩を売ろうと思っての行動だったのだろう。「風見鶏」と言われた中曽根さんと、一徹な藤尾さんは相容れない。出世より自分の主義と義理を重んじ、生涯同じ主君に仕えた藤尾さんのような政治家は、今はいなくなってしまった。」と回顧している。
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