文部次官通達とイールズ声明
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「文部次官通達とイールズ声明」の解説
6月の全国学園ストと9月の全学連結成を受けて、10月8日文部省は次官名で政府の学生運動に対するはじめての方針である「学生の政治活動について」通達を発し、この通達の「学校ハ学問教育ノ場デアッテ、政治闘争ノ舞台デアッテハナラナイ。」「カカル秩序ヲ乱スヨウナ学校内ノ政治活動ハ許サルベキデハナイ。」「特定ノ政党ノ支部又ハ之ニ類スル学外団体ノ支部ヲ学内ニモツコトハ極力回避サルベキデアル。」 という内容はその後各大学の学生運動対応の指導原理となった。第二組合として「私学連」が結成されたが振るわなかった。長野師範学校では細胞の解散、自治会の全学連からの脱退を強要し、学校内外にかかわらず政治活動を行わないという誓約書を学生に書かせ、従わない29学生を退学などの処分に付し、これが戦後学生運動史上はじめての大弾圧事件となった(長野師範学校事件、のちに占領軍軍政部の介入があり学生側は法廷闘争でも敗北した)。このように次官通達を受けて各大学が共産党細胞を解散する最中、文部省は大学法案要綱(大学法案)の国会提出を図った。国立大学学長会議、日本学術会議、日本教職員組合(日教組)が反対を表明する中、全学連は独自の大学法案を発表し、それとともに九州学連を先頭に全国的なストライキを以て反対闘争に打って出た。このなかで学生運動民主化同盟(学民同)による反全学連運動も少数ながら発生した。全学連は大量処分に対しゼネストで対抗したが、これは日共中央の路線とも相いれないものであった。それらの反対運動によって、政府は大学法案の上程を断念し、あらたに設置された大学管理法起草協議会は全学連からも意見聴取をすることとなり、全学連は結成後最初の闘争で勝利を収めた。このころまでは労働運動や農民運動とは異なり、学生運動に対しては政府による組織的な解体策動は存在しなかった(このことが、全学連が後に労働者・農民・市民を欠いた「前衛」となることの布石となる)。 朝鮮半島情勢の緊張に伴って強められた反共政策の一環として、1949年4月に吉田内閣は団体等規正令を公布・施行し、レッドパージが開始された。占領軍も反共・学生への弾圧を強め、7月19日の新潟大学を皮切りにCIE顧問のイールズを全国大学に派遣し「赤色教官とスト学生の追放」を訴えさせた(イールズ声明)。共産党は学生に「同盟登校」を命じ、全学連中央闘争委員会はレッドパージに「人民と共に教育を防衛する」べくゼネストを以て闘うことを決議した。各大学ではこのイールズ声明への学生による反対闘争が巻き起こり、全学連は「全面講和と全占領軍の撤退、イールズ声明反対、レッドパージ反対」のスローガンを掲げてストライキで闘った。5月28日から30日、商大講堂での全学連第2回大会では、「①ストックホルム・アピール百万人署名を中心にした平和擁護運動②軍事基地反対、全面講和、全占領軍撤退闘争③イールズ声明撤回、レッドパージ反対闘争④授業料、育英資金、その他部分的要求の闘争⑤学生戦線の統一、労学共闘の強化」の方針を決定し、国際学連への加入手続きもとった。この反対姿勢によって、8月に全学連は団体等規正令適用を受けることとなる。1950年に入ると朝鮮戦争勃発に伴いデモ禁止やレッドパージが行われる中で、全学連は非常事態宣言を発し、平壌放送を通じて朝鮮の学生にメッセージを送るなどした。また、9月から10月にかけてはレッドパージ反対のために「9・30駒場」をはじめとする試験のボイコットやゼネストを実施した。各大学当局はロックアウトによって警官隊との衝突を回避しようと試みたが反対運動は鎮まらず、天野文相はついに大学内のレッドパージを撤回することとなった。ただし、この闘争の中で早稲田大学事件での処分や中央大学などの脱退などがあり、全学連の闘争は表面的な華やかさを失いつつあった。全国で2万人以上とも言われるレッドパージが吹き荒れる中で、学生運動のみが勝利を勝ち取ったとされる。これは、大学の治外法権的地位と、運動の爆発的高揚に起因するものであった。 1949年11月2日から3日、大隈講堂で開かれた第3回大会ではすでに日共中央と全学連とのかい離が見え始め、関東代議員の70パーセント(全代議員の40パーセント)が日共の大会中止指示を受けて大会を欠席している。 初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。この時期に全学連で活動した者には、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、後の日本社会党副委員長の高沢寅男、第3回全学連中央委員会で委員長に選出され、京大天皇事件を引き起こした米田豊昭や映画監督の大島渚、田中角栄秘書となる早坂茂三などがいた。
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