文部省での昇進
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説得の成功もあり、帰国後の明治7年(1874年)、新たに文部卿となった木戸孝允のもと、4月には文部少丞となる。さらに明治9年(1876年)4月には奏任官である文部大丞・一等法制官となった。この年、来日中のエミール・ギメの訪問を受けた。翌明治10年(1877年)1月には文部大書記官・太政官大書記官に昇進する。10月には翌年のパリ万国博覧会のため派遣され、ギメと再会した。明治12年(1879年)5月に帰国、この渡仏中に博覧会副総裁の松方正義と出会い、以後交流が深まる。 また、フランスで西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけでこの分野への関心を持った。この後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、その美術研究の支援者となる。後援を受けたフェノロサらは京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進めた。 明治13年(1880年)に文部少輔(現在の文部省事務次官)となり、同11月には内国勧業博覧会の審査副長および議官に就任した。藩閥の力が強力な当時では、小藩出身の人物の出世としては珍しいほどの速さである。文部卿(後の文部大臣)の河野敏鎌の行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほどの権勢を振るった。
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