文部省『国体の本義』
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詳細は「国体の本義」を参照 1937年3月文部省が『国体の本義』を発行する。その4年前の思想対策協議委員の当初案で日本精神の聖書経典ともいえる国民読本を編纂する案があり、また2年前の国体明徴運動時の予算要求では、修身編・国史編・法制編の三部構成の冊子「国体本義」の編纂頒布を盛り込んだことからも分かるように、『国体の本義』編纂は文部省にとって宿願であった。前年4月文部省が編纂委員会を組織し作成に着手することになったと報じられる。その際の思想局長伊東延吉の談話に次のようにいう。 国民全般に国体の本義に関する理解を十分ならしめたいという意味からこの事業を思い立ったのである。それでなるべく平易に了解されるように編纂したいと思っている。国体の本義というと、とにかく古い歴史的な事ばかりのように解せられがちであるが、今度のは歴史的であるとともに社会的にも十分検討して時代認識に立って国体の本義を明かにする方針である。出来上ったら小中学校の教職員および学生生徒、学事関係者に配布するほか、一般国民にも容易く購読の出来るようにしたいと思っている。 編纂委員は14人、吉田熊次・紀平正美・和辻哲郎・井上孚麿・作田荘一・黒板勝美・大塚武松・久松潜一・山田孝雄・飯島忠夫・藤懸静也・宮地直一・河野省三・宇井伯寿が委嘱される。編纂調査嘱託には国民精神文化研究所から山本勝市・大串兎代夫・志田延義が指名され、文部省から7人が指名される。編纂委員は大所高所から注文をつけるだけで、実質的には編纂調査嘱託が執筆し、最終段階で思想局長伊東延吉みずから加筆修正したと推測される。編纂委員の和辻哲郎は「国体概念の根本的規定等において現代のインテリゲンチヤを納得せしめるよう論述し得るか相当重大なる問題」と注文をつける。 文部省は『国体の本義』について自ら解説し「本書の編纂に当つて特に意を用いた点は、現在における国体の明徴は我が国民の間に久しきにわたって浸潤してゐる欧米の思想、文化の醇化を契機とせずしては、その効果を全うし得ないという精神からして、我が国体、国家生活、国民精神文化を説くに際し、努めて欧米のそれらに触れ批判を下した点にある」とする。 緒言で「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義および自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎えられ、また続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義の侵入となり、最近に至ってはファッシズム等の輸入を見、遂に今日われらの当面するごとき思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至った」。「今日我が国民の思想の相剋、生活の動揺、文化の混乱」は「真に我が国体の本義を体得することによってのみ解決せらる」。「今や個人主義の行き詰りにおいてその打開に苦しむ世界人類のためでなければならぬ。ここに我らの重大なる世界史的使命がある」という。 刊本では冒頭で「本書は国体を明徴にし、国民精神を涵養振作すべき刻下の急務に鑑みて編纂した」。「我が国体は宏大深遠であって、本書の叙述がよくその真義を尽くし得ないことをおそれる」とする。草稿段階では、本書以外の研究を拘束するものではない旨の記述があったが、これは最終的に削られる。また、草稿段階では多少の理性的客観的姿勢もあったが、刊本では国体の本義の闡明が世界人類のため世界史的使命を持つ等の記述に論理の飛躍が見られ、理性や客観性は消し飛んでいる。 結語では「国体を基として西洋文化を摂取醇化し、以て新しき日本文化を創造し、進んで世界文化の進展に貢献するにある」、「西洋思想の摂取醇化と国体の明徴とは相離るべからざる関係にある」として偏狭な国体論を戒めているのに対し、本文では、西洋近代思想は個人主義に帰結すること、それに由来する主義は自由主義・民主主義から共産主義・無政府主義に至るまで全て日本の国体に容認されないことの説明に最大の力を注いでいる。このような不整合は起草関係者自身も認識しているところであり、不整合のわけは結論が各章から導かれるという順序ではなく、あるべき結論を先に決めてかかったからだという。 文部省は 『国体の本義』の普及徹底を図り、30万部を全国中等学校以下の教員その他教育関係者に配布する。市販版は1年後に20万部を越え、1943年3月には190万部に達する。 『国体の本義』の解説書のなかで最も早く刊行された三浦藤作『国体の本義精解』は短期間に版を重ね1941年1月までに120版に至る。三浦は『国体の本義』を礼賛し「最も広汎な視野の上に、最も正確な資料に基づき、最も厳密な態度を取り、我が国体をあらゆる角度から凝視し、最も普遍妥当性ある国体論を樹立しようとした努力の結晶である」と評価する。 戦後の国立教育研究所は『国体の本義』について「中等学校教育の修身科の教科書の『聖典』になり、また、高等学校、専門学校、軍関係学校の入学試験にとっての必読書ともなって、日本の青少年の人間形成に大きな役割を果たした」と指摘する。しかし『国体の本義』は刊行後直ちに聖典になったわけではない。帝国議会では『国体の本義』に対する批判が沸き起こる。『国体の本義』にある「君民共治でもなく、三権の分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である」という一節が批判されたり、『国体の本義』は国体の本義に重大な疑惑を抱かせると反対されたり、『国体の本義』は前の林内閣の産物であるから今の近衛内閣で見直す必要があると指摘されたりする。こうした批判はしばらく続いたようであるが、刊行後まもなく日中戦争が勃発し、国民精神総動員とともに国体明徴が一層強調されるようになると、批判は次第にタブー化し、『国体の本義』は聖典化する。 『国体の本義』編纂を取り仕切った伊東延吉は、『国民の本義』の市販版を出した翌月、専門学務局長兼思想局長から文部次官に昇任する。
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