矢内原忠雄の辞職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
1937年12月、東京帝国大学経済学部教授矢内原忠雄が辞職に追い込まれる。これより先、矢内原が『中央公論』9月号に掲載した「国家の理想」が削除処分になり、11月に経済学部長土方成美が矢内原の進退を問題とするが、東大総長が木戸幸一文相と協議して、一旦は矢内原本人の陳謝を条件に事を収めることになる。ところが、文部次官伊東延吉ら文部省幹部がこれに異議を唱え、陳謝では到底収まらない、中央公論以外にも国体精神と全く相容れない文言が数か所ある、議会で質問が出た場合に答弁のしようがない、大学としても事態の紛糾は免れないだろう、矢内原は辞職するしかない、などと言い立てて矢内原を辞職に追い込んだのである。
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