白馬・延津の戦いとは? わかりやすく解説

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白馬・延津の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 18:27 UTC 版)

官渡の戦い」の記事における「白馬・延津の戦い」の解説

建安5年200年)、遂に袁紹河南侵攻意思固めるが、袁紹陣営では対曹操戦略について幕僚同士さかんな論争起きた沮授は、曹操との直接対決避けて騎兵分散派遣し国境荒らすことで敵を疲労させる策を主張した曰く、「曹操天子擁立し許昌宮殿築いており、これに南進するのは義に背くものであります曹操法令行き届き士卒精練ですから、公孫瓚なすすべなく包囲されていたのとは違います大義名分の無い兵を起こすべきではありません」。 別駕田豊前年電撃戦主張から策を切り替え持久戦略主張した曰く、「曹操は既に劉備破り許昌空城ではなくなりました曹操用兵を得意とし、兵力少なくて侮れないので、持久戦持ち込むのに越したことはありません。英気養いながら敵を疲労させれば3年待たずに勝つ事ができます」。 これに対し郭図と治中の審配短期決戦主張した曰く、「兵書には、兵力10倍なら囲み、5倍なら攻め互角なら全力で戦うとあります明公袁紹)の神武河北強兵によって曹操討伐するのだから、その勢い掌を返すようなものです。今すぐ攻めねば、のちのち狙いにくい事になるでしょう」。 袁紹郭図審配進言採用した。さらに郭図は、内外総監する沮授権限勢威強大すぎると袁紹進言した。これにより監軍地位権限三都督へと三分割され、沮授淳于瓊郭図の3人が都督任命された。同時に軍の事務統括審配逢紀を、参謀田豊許攸を、将帥顔良文醜らをそれぞれ任命したまた、頑なに持論主張した田豊は、兵士士気低下させるという理由袁紹投獄されてしまった。 2月袁紹は自らの支配する地域陳琳に書かせた檄文出し、軍を大いにまとめ、曹操との決戦断行した。まず袁紹淳于瓊郭図顔良派遣し白馬黄河南岸)に布陣していた曹操軍東郡太守劉延攻撃させた。 4月曹操軍師荀攸策略従い于禁楽進の軍を白馬から数キロ離れた延津から渡河させ、淳于瓊郭図顔良から切り離すことに成功すると、張遼降将である関羽先鋒として白馬顔良攻撃した関羽敵中深く斬り込み顔良首級挙げたので、白馬包囲解かれた。黄河渡った于禁楽進の軍は黄河沿いに西進し、汲・獲嘉の二県にある三十余り敵陣焼き払い将軍何茂王摩二十余人降伏させた。 曹操白馬住民移住させると、白馬拠点放棄して西に敗走した袁紹今度文醜劉備騎兵部隊曹操の陣を攻撃させるが、荀攸はこれに対して輜重隊をおとりに使う策略曹操進言した。この計に嵌った文醜軍の隊列乱れたところを攻撃し文醜討ち取った袁紹黄河渡り延津向かおうとすると、沮授病気理由に軍指揮辞退申し出た。これに袁紹憤然とし、沮授配下の軍を郭図従属させた。

※この「白馬・延津の戦い」の解説は、「官渡の戦い」の解説の一部です。
「白馬・延津の戦い」を含む「官渡の戦い」の記事については、「官渡の戦い」の概要を参照ください。

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