白馬・延津の戦い
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建安5年(200年)、遂に袁紹は河南侵攻の意思を固めるが、袁紹陣営では対曹操の戦略について幕僚同士のさかんな論争が起きた。 沮授は、曹操との直接対決を避けて騎兵を分散派遣し、国境を荒らすことで敵を疲労させる策を主張した。曰く、「曹操は天子を擁立し、許昌に宮殿を築いており、これに南進するのは義に背くものであります。曹操の法令は行き届き、士卒は精練ですから、公孫瓚がなすすべなく包囲されていたのとは違います。大義名分の無い兵を起こすべきではありません」。 別駕の田豊も前年の電撃戦主張から策を切り替え、持久戦略を主張した。曰く、「曹操は既に劉備を破り、許昌は空城ではなくなりました。曹操は用兵を得意とし、兵力が少なくても侮れないので、持久戦に持ち込むのに越したことはありません。英気を養いながら敵を疲労させれば、3年を待たずに勝つ事ができます」。 これに対し、郭図と治中の審配は短期決戦を主張した。曰く、「兵書には、兵力が10倍なら囲み、5倍なら攻め、互角なら全力で戦うとあります。明公(袁紹)の神武と河北の強兵によって曹操を討伐するのだから、その勢いは掌を返すようなものです。今すぐ攻めねば、のちのち狙いにくい事になるでしょう」。 袁紹は郭図と審配の進言を採用した。さらに郭図は、内外を総監する沮授の権限と勢威が強大すぎると袁紹に進言した。これにより監軍の地位・権限は三都督へと三分割され、沮授・淳于瓊・郭図の3人が都督に任命された。同時に軍の事務の統括に審配と逢紀を、参謀に田豊と許攸を、将帥に顔良、文醜らをそれぞれ任命した。また、頑なに持論を主張した田豊は、兵士の士気を低下させるという理由で袁紹に投獄されてしまった。 2月、袁紹は自らの支配する地域に陳琳に書かせた檄文を出し、軍を大いにまとめ、曹操との決戦を断行した。まず袁紹は淳于瓊・郭図・顔良を派遣し、白馬(黄河南岸)に布陣していた曹操軍の東郡太守劉延を攻撃させた。 4月、曹操は軍師荀攸の策略に従い、于禁と楽進の軍を白馬から数キロ離れた延津から渡河させ、淳于瓊と郭図を顔良から切り離すことに成功すると、張遼と降将である関羽を先鋒として白馬の顔良を攻撃した。関羽が敵中深くに斬り込み顔良の首級を挙げたので、白馬の包囲は解かれた。黄河を渡った于禁・楽進の軍は黄河沿いに西進し、汲・獲嘉の二県にある三十余りの敵陣を焼き払い、将軍何茂・王摩ら二十余人を降伏させた。 曹操は白馬の住民を移住させると、白馬の拠点を放棄して西に敗走した。袁紹は今度は文醜・劉備の騎兵部隊に曹操の陣を攻撃させるが、荀攸はこれに対して輜重隊をおとりに使う策略を曹操に進言した。この計に嵌った文醜軍の隊列が乱れたところを攻撃し、文醜を討ち取った。 袁紹が黄河を渡り、延津に向かおうとすると、沮授は病気を理由に軍指揮の辞退を申し出た。これに袁紹は憤然とし、沮授配下の軍を郭図に従属させた。
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