下邳の戦い
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下邳の戦い | |||||||
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後漢末の戦争中 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
曹操 劉備 |
呂布 | ||||||
指揮官 | |||||||
曹操 劉備 夏侯惇 于禁 徐晃 楽進 郭嘉 荀攸 張飛 |
呂布 ![]() 高順 ![]() 張遼 ![]() 陳宮 ![]() 侯成 ![]() 臧覇 ![]() |
下邳の戦い | |||||||
繁体字 | 下邳之戰 | ||||||
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簡体字 | 下邳之战 | ||||||
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下邳の戦い(かひのたたかい)は中国の後漢末期の198年冬から199年2月7日にかけて[注釈 1]曹操と劉備の連合軍と呂布軍との間で行われた戦いである。この戦いは曹操と劉備の勝利で終わり、敗れた呂布は処刑され、後漢末の群雄である呂布は滅亡した。
背景
興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙を攻撃している隙に曹操に背いた陳宮と張邈は、曹操の本拠地である兗州に呂布を盟主として迎え入れた。そのため、曹操は徐州侵攻を諦め、呂布軍の迎撃に当たることになる[2]。この戦いは100日以上にわたって続いたが、最終的に蝗害により停戦となった[3]。翌、興平2年(195年)、曹操は兗州の諸城を全て取り戻すことに成功し、鉅野で呂布を破った。呂布とその手勢は、陶謙の後を継いで徐州牧となっていた劉備を頼って東へと逃亡する[4]。
建安元年(196年)、曹操は荒廃していた洛陽で保護した献帝を、新都とした許へと移した[5]。同年、劉備と袁術との間の戦いに乗じて呂布は徐州の都・下邳(現在の江蘇省邳州市)を占領、劉備から徐州を奪い取った。劉備は呂布に徐州の支配権を明け渡し小沛へと移った[6]。だが、間もなく呂布は劉備の存在を脅威と感じ、軍勢を率いて小沛を攻撃した。敗れた劉備は曹操に頼らざるを得なかった。曹操は劉備に軍糧を支援し、兵を再編させて小沛に駐屯させた[7]。
建安2年(197年)頃、河北の冀州、青州、并州の3州を支配する袁紹から、宛城の戦いで張繡に敗れたばかりの曹操に対し、横柄な手紙が送られた。この手紙に怒った曹操は、袁紹が華北で勢力を伸ばす前に攻撃することを考えたが、袁紹軍と戦えるほど軍備が整っていなかった。曹操の軍師である郭嘉と荀彧は現状を鑑みて、曹操が袁紹に優る様々な長所を数え上げながら、袁紹と呂布が同盟を結ぶ危険性を指摘し、袁紹が公孫瓚を攻めている隙にまず呂布を滅ぼすべきだと助言した。こうして、曹操は呂布を攻めるための準備を始めた。[8][9]
戦闘
呂布と袁術の争い
建安2年(197年)、皇帝を自称した袁術は、呂布との同盟関係を固めるため配下の韓胤を遣わし、袁術の息子と呂布の娘との婚姻を持ち掛けた。当初、呂布はこの申し出に応じ、韓胤とともに娘を送り出した。しかし呂布は、5年前に郭汜・李傕らに長安を追われた際に袁術が自分を受け入れなかったことを恨んでおり、陳珪の意見を聞くと考えを変えた。呂布は追手を差し向け娘を取り戻し韓胤を捕らえると、韓胤を許都に送って曹操の手で処刑させた[10]。これにより呂布は左将軍に任命され[11]、曹操は功を労う手紙を送った[12]。呂布は返礼の使者として陳珪の息子・陳登を曹操の下に遣わした。陳登は曹操に見えると、呂布は勇はあるが計はなく、行動が軽はずみで信用のおけない人物であるので、可能な限り速やかに滅ぼすべきだと曹操に述べた。陳登の見方に同意した曹操は、陳登を広陵太守に任命し、呂布軍における内通者として送り込んだ[13]。
一方、呂布の裏切りに怒った袁術は、韓暹と楊奉に率いられた白波賊と手を結ぶと、張勳と橋蕤の二将に命じて七路より呂布を攻撃させた。呂布の下には兵3000と馬400しかおらず、不利な状況であった。袁術軍に敵わないと恐れた呂布は、このような状況を生み出した原因となった陳珪を非難した。しかし陳珪は、韓暹と楊奉が袁術に心服している訳ではないと考え、二人を説得し調略することを進言した。結果、呂布が袁術軍を攻撃すると、韓暹と楊奉は寝返った。袁術軍は敗れ、呂布は淮河の南に到るまで追撃した。[14]
下邳包囲戦
建安3年(198年)、呂布は袁術と再び和睦し、小沛の劉備を攻撃するために高順を派遣した。曹操は劉備を救援すべく援軍と共に夏侯惇を派遣したが、劉備は高順に敗れた[15]。小沛は9月に呂布軍の手に落ち劉備は逃れたが、妻子は捕らえられた[16]。
同9月、曹操は呂布征伐を開始した[17]。曹操が澎城(現在の江蘇省徐州市)に達すると、陳宮は呂布に、曹操軍は許都からの長征で疲れているから曹操を攻撃するよう求めた。しかし呂布は曹操を下邳で迎撃するとしてこれを退けた[18]。10月、曹操は澎城を陥落させ、彭城の相・侯諧を捕えた[19]。曹操が下邳に至ると、陳登は曹操に寝返り、広陵から兵を率いて先陣を務めた[20]。呂布は曹操を迎え撃つために自ら部隊を率いて出撃したが、猛将成廉を捕えられる大敗を喫し、城下まで撤退せざるを得なかった[21]。
曹操は呂布に降伏を勧める手紙を送った。呂布は怖くなり降伏するつもりであったが、陳宮はかつて自分が曹操を裏切った罪を問われることを恐れて降伏を阻止しようとした。陳宮は、曹操軍は長距離を遠征してきており勢いは長くは続かないので、呂布は城外に出撃し、陳宮は城内で守りを固め、どちらかが攻撃を受けた場合もう一方が敵の背後を突くことで互いを支援できるように部隊を配置するよう進言した。また陳宮は、曹操軍は数か月もしないうちに兵糧が尽き打ち破ることが可能であるとも言った。呂布はこの案に同意し、呂布は城外に出撃する一方で陳宮と高順を城に残そうとした。しかし呂布の妻は、陳宮と高順は普段から仲が悪いため、呂布が出撃してしまっては力を合わせて城を守ることはできないと主張した。また、呂布の陳宮に対する現在の扱い方よりも、かつて曹操に仕えていたころの方が厚遇されていたと陳宮は感じており、その為に陳宮は呂布を裏切るかもしれないとも述べた。結果、呂布は陳宮の計画を中止した。[22][23]
呂布は袁術からの援軍を要請するために王楷と許汜を派遣したが、袁術は呂布が嘗て結婚の申し込みをどのように取り消したかを思い返すと拒否した。王楷と許汜は袁術が呂布が殲滅されるなら孤立するであろうと言って袁術が援軍を送るよう説得しようとした。袁術は援軍を送ろうと考えたが、すぐには実行しなかった。その間に呂布は、袁術が援軍を出さないのはかつて縁談を断ったためではないかと考え、夜中に自ら娘を抱えて下邳から連れ出し、袁術の領土まで送ろうとした。しかし呂布は城外で曹操軍と遭遇してしまい、娘を抱えたまま応戦することはできなかったため、城に帰還せざるを得なかった。[24]
一方曹操軍も下邳を攻めあぐね、兵士たちにも厭戦気分が広まり始めた。曹操は撤退することを考えたが、軍師の荀攸と郭嘉は非常に多くの敗戦を経験して呂布軍は既に戦意が落ちていると考え、その為に包囲を続けるよう曹操に助言した。そこで曹操は沂水と泗水を溢れさせて下邳を水攻めにした。[25][26][27]
呂布の降伏
呂布の部将・侯成は食客に命じて15頭の馬を世話させていたが、この男は劉備に送るつもりで馬と共に逃走した。侯成は自らこの男を追跡し、馬を取り戻した。諸将はこの手柄に対して侯成を祝福し、侯成は5,6斛の酒を醸し10頭余りの豚を狩り、呂布に5斗の酒と半分の豚をまず献上した。しかし、呂布は酷く立腹して言った。「俺は禁酒を命じたのにもかかわらず、今お前は酒を準備している。諸将とともに飲み食いして義兄弟の仲を深め、謀反を起こして俺を殺すつもりだろう?」侯成は落ち込み恐れ、建安3年12月癸酉(199年2月7日)[注釈 1]、同僚の宋憲や魏続と謀り、陳宮と高順を捕らえて下邳を包囲する曹操の下へと降った。[28][29][30]
呂布は侯成の裏切りについて報告を受け、麾下の兵とともに白門楼に登ったところ、曹操軍が急激に包囲を進めるのを目の当たりにした。左右の兵に自分を殺して首を曹操に届けるよう頼んだが、兵は拒んだため、呂布は降伏を決意した[31]。
その後
呂布と部下は縛り上げられ曹操と劉備の前に連れて来られた。呂布は「縄を少し緩めてくれんか」と訴えたが、曹操は言った。「虎を縛るにはこれで丁度良い。」呂布は、「貴殿の悩みの種はこの呂布だけであったが、今ここにこうして降伏した。もはや天下に何の憂いがあるだろうか。貴殿が歩兵を率い、この呂布に騎兵を率いるよう命ずれば、天下は定まったも当然だ」と曹操を説得しようとし、曹操に仕えると約束した。曹操が考え込んでいたので、劉備が言った。「呂布が丁原と董卓に何をしたのかお忘れではありますまいな。」曹操はうなずいた。呂布は劉備を指差し「この野郎が最も信用ならんのだぞ!」と罵った[32]。また『英雄記』によると、呂布は「この呂布は諸将を厚く用いたというのに、諸将は危急の時にこの呂布を裏切るだけだった」と述べたが、曹操が「卿は妻を裏切り、諸将の婦人を愛したというのに、何をもって厚く用いたのかね?」と尋ねると呂布は黙ってしまったという。また、『献帝春秋』によると、曹操は呂布が仕えることを誓ったため助命を考えたという。しかし曹操の主簿・王必は即座に曹操を止め、言った。「呂布は手に負えない捕虜です。部下は近くにいます。生かしておくことはできません。」そこで曹操は笑って呂布に告げた。「私はお前を助けたかったが、主簿が駄目だと言うのでな、どうしようもない。」[33]
曹操は陳宮に、「知恵者のお前がなぜ今こうした境遇に置かれているのか?」と尋ねると、陳宮は呂布を指して「この男が自分の進言に従わなかったからだ」と答えた。曹操は、陳宮に老母や妻子を思い出させることで陳宮を再び配下に加えようとしたが、陳宮は「天下を治める者は人の親を殺したり家の祭祀を絶やしたりはしない」と述べ助命を拒絶した。結局、陳宮は振り返ることなく刑場に歩みを進めたので、曹操はそれを涙ながらに見送った。陳宮の遺族は曹操が面倒を見た。[34][35][36]。呂布・陳宮・高順は絞首刑に処され、首は許都に送られ晒された後に埋葬された[37]。
曹操は嘗て呂布に仕えた張遼[38]や陳羣[39]らを受け入れ、自分の下で将軍や官吏に任じた。嘗て呂布に従った臧覇や孫観、呉敦、尹礼、昌豨のような群小の軍閥も曹操に降伏し、曹操は海岸線沿いに青州・徐州の一部の統治を委任した[40]。
下邳の戦いの結果、曹操は自身を脅かす存在であった呂布を滅ぼすことに成功した。建安4年(199年)、劉備は董承らと謀って曹操に叛旗を翻し、徐州刺史車冑を殺害して徐州の支配を奪い取ったが、翌、建安5年(200年)、曹操は速やかに劉備を破り、徐州の支配を再び奪い取った[41]。こうして曹操は、徐州の統治を固めるとともに、本拠地である兗州への差し迫った脅威を取り除くことに成功した。これにより、続く官渡の戦いに向けて曹操は袁紹との戦いに注力できる体制を整えることとなった。
両軍の構成
三国志演義における描写
この戦いは羅貫中の歴史小説『三国志演義』においては第18回と第19回で描かれている。物語を劇的にするためにいくつかの架空の事件が挿入されるなど、様々な脚色が加えられている。作中では戦闘は2か所で行われており、1度目は侵攻してきた呂布軍を劉備が曹操の援軍とともに小沛において迎え撃つ戦い、2番目は曹操と劉備の連合軍が呂布の立て籠もる下邳を包囲した戦いとなっている。
この戦いにおける名場面として特に有名なものには下記のものがある。
夏侯惇、左目を失う
玄徳の守る小沛が呂布の攻撃を受けているとの知らせが簡雍によって許都にもたらされ、曹操は夏侯惇に命じて援軍5万を派遣した。夏侯惇が到着すると、高順が率いる呂布軍に遭遇し、夏侯惇は高順と一騎打ちを繰り広げる。二人は40~50合ほど打ち合うと、高順は持ち堪えられず陣へと退いた。
呂布の部将・曹性は追いかけてくる夏侯惇を見とめると、夏侯惇に向けて矢を発した。その矢は夏侯惇の左目に命中し、夏侯惇は叫び声を上げると、眼球と共に矢を引き抜いた。「これは父の精であり母の血である。親から授かったこの目を棄てられるか。」と叫ぶや、眼球を飲み込み、曹性に突撃した。曹性は防ぐ間もなく、顔面を槍に貫かれて夏侯惇に討ち取られた。それを目の当たりにした双方の兵士は衝撃を受けた[42]。
- 史実
正史『三国志』によると、夏侯惇が呂布との戦いの最中に流れ矢に当たり左目を負傷したことは事実である[43]。『魏略』によると夏侯淵と区別するため、軍中では夏侯惇のことを「盲夏侯」とあだ名したが、夏侯惇はそのあだ名を嫌い、鏡に映った姿を見ると、鏡を地面にたたきつけたという[44]。しかし、具体的にどの戦いの際に負傷したかは明らかにされていない。
また曹性は、史料上では唯一『英雄記』にのみ記述がある。呂布の部将・郝萌が建安元年(196年)6月に呂布に対して反乱を起こしたが高順によって鎮圧された際、郝萌の部将である曹性は郝萌に背いて襲い掛かった。郝萌と曹性は戦い、曹性は郝萌に刺し傷を負わされたが、曹性は郝萌の片腕を切り落とした。郝萌が高順に首を打たれた後、呂布の取り調べに対し、「郝萌は袁術と謀って、陳宮とともに反乱を企てた」と述べたため、陳宮の顔は真っ赤になった。呂布は陳宮の罪は不問とし、曹性に対しても郝萌を止めようとしたことを評価して郝萌の軍を与えられた[45]。これ以外の曹性に関する記録はなく、下邳の戦いに従軍したかどうか、没年はいつか、いずれも定かではない。
侯成の裏切り
下邳を包囲する曹操軍による水攻めの中、酒色に溺れる呂布は鏡で自分の姿を見て己の肉体の衰えを感じ、原因となった酒を断つよう城中に命じた。そのような中、呂布の部将・侯成の馬15頭を盗んだ飼育係が、玄徳の下へと降ろうとするという事件が発生する。これに気づいた侯成は後を追って飼育係を殺し、盗まれた馬を奪回した。諸将はこれを祝い、侯成が醸し得た5,6斛の酒を諸将と飲もうと考えたが、呂布に罪に問われることを恐れた。そこでまず酒5瓶を呂布に献上し、許しを得ようとした。しかし呂布は酷く立腹し、禁酒令に背いた侯成を処刑しようとした。宋憲や魏続等が侯成の助命を嘆願したため斬首は免れたが、鞭打ちに処せられ、50回打たれたところでようやく解放された。自分たちの言を聞こうとしない呂布に対し侯成・宋憲・魏続は憤り、3人は呂布に背くことを企んだ。その夜、侯成は呂布の馬(赤兎馬)を盗み、魏続が開けた東門より曹操の元へと走った。[46]。
- 史実
『三国志』呂布伝では、呂布が約3か月間曹操軍に下邳で包囲される中で、次第に人々の心が離れていき、部将の侯成・宋憲・魏続が陳宮を捕らえ、手勢とともに曹操に下ったと簡潔に述べられている[28]。『九州春秋』では、馬15匹を盗んで沛城の劉備の下へと走ろうとした食客から馬を取り戻した侯成が、酒と豚を呂布に献じたが、禁酒令を破ったことに呂布は怒り、恐れた侯成は酒を捨てた。これより呂布への疑心が生じ、下邳を囲む曹操の下へと降ったという、『演義』と同様の逸話が載っている。ただし、この事件がいつ起こったことなのかに関する詳細は記録されていない。また、『演義』と異なり侯成は鞭打ちを受けてはいない[29]。『後漢書』呂布伝では、『九州春秋』とほぼ同様の内容が記録されているが、侯成らが諸将(具体的な名前は書かれていない)と謀って陳宮のみならず高順も捕らえ、曹操に降伏したと述べている[30]。またいずれの史料にも、呂布が禁酒令を出した時期や理由は記されていない。赤兎馬に関しても、『三国志』で記述があるのは袁紹の下で呂布が張燕と戦った時の記述のみであり[47]、下邳の戦いに関連した記録は残っていない。
呂布の最期
侯成が降った翌朝、曹操軍が総攻撃を始めたので、呂布は一日中自ら方天画戟を振って敵を撃退した。攻撃が落ち着いたため、呂布は下がって休憩をとったところ、うたた寝をしてしまった。その隙に、宋憲は方天画戟を盗み、魏続とともに呂布を縛り上げた。合図の白旗が掲げられ、曹操軍を城内に招き入れようとしたが、夏侯淵が罠の可能性を疑ったため、宋憲は方天画戟を城外に投げ捨て、曹操軍が入城できるように開門した。曹操軍は一斉に突入し、高順・張遼は西門で捕らえられ、陳宮も南門から逃げようとしたところを徐晃に捕らえられた。 呂布は曹操の前に引きずり出された。呂布は「縄がきつすぎる、少し緩めてくれ」と叫んだが、曹操は「虎を縛るにはこれで丁度良い」と言った。呂布は侯成と魏続、宋憲が側に立っているのを見ると「俺はお前達に良くしてやった。何故裏切ったのか」と言った。宋憲は「妻妾の言葉には耳を傾けても、我ら諸将の助言は無視していた。これを「良くしてやった」と言うのか?」と答えた。呂布は黙ったままであった。それから曹操は高順に対し、「何か言うことはあるか?」と質問したが、高順は答えなかったため、怒った曹操は高順を斬るよう命じた。 曹操は陳宮に再度仕えるよう手を変え品を変え促したが、陳宮の決意は固く、助命を拒否すると振り返ることなく刑場へと進んだ。曹操が涙ながらに陳宮の老母と妻子の面倒は見ると約しても陳宮は口を開かず、自ら首を差し出した。 呂布は曹操に、「貴殿の悩みの種はこの呂布だけであったが、呂布は今ここにこうして降伏した。貴殿を大将とし、この呂布を副将とすれば、天下は取ったも同然だ」と叫んだ。曹操が玄徳に意見を聞くと、玄徳は「「丁原と董卓の身に起きた事をお忘れではありますまいな」と答えた。呂布は「この野郎が最も信用ならんのだぞ!」と罵った。引きずられていきながら呂布は振り向き劉備に「大耳野郎が!俺が戟に矢を当てて助けてやった時の事を忘れたか!」と叫んだ[48]。曹操は呂布を絞首刑にし、その首は晒された[46]。
- 史実
『三国志』では呂布は包囲されているのを見ると抵抗せず自ら降伏したと書かれており、『演義』のように激しく抵抗した末に宋憲・魏続に裏切られて捕らえられたという記載はない(宋憲・魏続に捕らえられたとされているのは上述の通り陳宮および高順である)。また、曹操とのやりとりは三国志演義に記載されているのと同様の言葉もあるが[32]、陳宮とのやり取りや後述の張遼とのやり取りなど台詞を膨らませている個所、高順のように正史に一切記述がないのをあえて喋らなかったことにしている個所など、創作で補完している部分も多い。絞首刑にされた呂布の遺体の行方についても、都の許に送られ晒し首となった後に埋葬されたと明記されている[37]。また、『後漢書』の呂布伝には、曹操軍に包囲されているのを見て敗北を悟った呂布は、家臣に自分の首を差し出して曹操に降伏するように頼んだが、家臣が拒んだため共に降伏したという逸話が記されているが[31]、この話も物語の展開上採用されていない。方天画戟についても、史実では宋代以降に発明された武器なので、当然のことながら正史には一切登場しない。
張遼の降伏
張遼が戦闘後に捕らえられ曹操の前に引きずり出されると、姑息な命乞いを行う呂布を蔑み、「呂布の匹夫め!死ぬときは死ぬのだ、今さら何を恐れる!」と一喝した。さらに曹操から問いかけられても恐れを見せず、「濮陽で国賊を焼き殺せなかったのは残念だ[49]」と答えた。曹操は激怒し、剣を抜いて張遼を殺そうとした[46]。しかし、玄徳は曹操の手を抑え、雲長は跪き、張遼の助命を嘆願した。すると、曹操は笑って剣を収め「私も文遠(張遼の字)が忠義の士であることを知っているゆえ、戯れただけだ」と言い、自ら縄を解いてやると、外套を脱いで張遼にまとわせ、席を勧めた。張遼は曹操の誠意に動かされ、曹操に服従した。張遼は中郎将の官位を拝し、関内侯の爵位を賜った[50]。
- 史実
『三国志』には張遼がどのような経緯で曹操に降伏したかは一切記述がない。張遼が曹操に降伏し、中郎将を拝し、関内侯の爵位を賜ったと述べるのみである[38]。そもそも張遼が下邳の戦いに参加したかどうかも記述がないので不明である。
大衆文化
呂布が最期を遂げた戦いということで、下邳の戦いは三国志の戦いの中でも比較的知名度が高い。コーエーテクモゲームス(旧:コーエー)のゲーム作品『真・三國無双シリーズ』では、『真・三國無双3』でステージとして採用されて以来、シナリオに取り上げられ続けている。
注釈
参考文献
脚注
- ^ 『資治通鑑』第62巻「[侯]成忿懼,十二月,癸酉,成與諸將宋憲、魏續等共執陳宮、高順,率其衆降。[呂]布與麾下登白門樓。兵圍之急,布令左右取其首詣[曹]操,左右不忍,乃下降。(中略)宮請就刑,遂出,不顧,操為之泣涕,幷布、順皆縊殺之,傳首許市。操召陳宮之母,養之終其身,嫁宮女,撫視其家,皆厚於初。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「會張邈與陳宮叛、迎呂布、郡縣皆應。荀彧程昱保鄄城、范東阿二縣固守。太祖乃引軍還。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「太祖乃自力勞軍、令軍中促爲攻具。進復攻之、與布相守百餘日。蝗蟲起、百姓大餓、布糧食亦盡、各引去。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「二年間、太祖乃盡復收諸城。擊破布于鉅野。布東奔劉備。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「太祖遂至洛陽、衞京都、暹遁走。天子假太祖節鉞、錄尚書事。洛陽殘破、董昭等勸太祖、都許。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「備東擊術、布襲取下邳。備還歸布。布遣備、屯小沛。布自稱徐州刺史。」
- ^ 『三国志』蜀書先主伝「呂布惡之、自出兵攻先主、先主敗走歸曹公。曹公厚遇之、以爲豫州牧。將至沛、收散卒、給其軍糧、益與兵、使東擊布。」
- ^ 『三国志』魏書荀彧伝「自太祖之迎天子也、袁紹內懷不服。紹既幷河朔、天下畏其彊。太祖方東憂呂布、南拒張繡、而繡敗太祖軍於宛。紹益驕、與太祖書、其辭悖慢。太祖大怒、出入動靜變於常。衆皆謂以失利於張繡故也。鍾繇以問彧、彧曰「公之聰明、必不追咎往事。殆有他慮」則見太祖問之、太祖乃以紹書示彧、曰「今將討不義。而力不敵、何如?」彧曰「古之成敗者、誠有其才、雖弱必彊。苟非其人、雖彊易弱。劉項之存亡、足以觀矣。今與公爭天下者、唯袁紹爾。紹、貌外寬而內忌、任人而疑其心。公、明達不拘、唯才所宜。此、度勝也。紹、遲重少決、失在後機。公、能斷大事、應變無方。此、謀勝也。紹、御軍寬緩、法令不立、士卒雖衆、其實難用。公、法令既明、賞罰必行、士卒雖寡、皆爭致死。此、武勝也。紹、憑世資、從容飾智、以收名譽、故、士之寡能好問者多歸之。公、以至仁待人、推誠心不爲虛美、行己謹儉、而與有功者無所恡惜、故天下忠正效實之士咸願爲用。此、德勝也。夫以四勝、輔天子、扶義征伐、誰敢不從?紹之彊、其何能爲!」太祖悅。彧曰「不先取呂布、河北亦未易圖也」」
- ^ 『三国志』魏書郭嘉伝裴注「傅子曰。太祖謂嘉曰「本初擁冀州之衆、青、幷從之、地廣兵彊、而數爲不遜。吾欲討之、力不敵、如何?」對曰「劉、項之不敵、公所知也。漢祖唯智勝。項羽雖彊、終爲所禽。嘉竊料之、紹有十敗、公有十勝、雖兵彊、無能爲也。紹繁禮多儀、公體任自然、此道勝一也。紹以逆動、公奉順以率天下、此義勝二也。漢末政失於寬、紹以寬濟寬、故不攝、公糾之以猛而上下知制、此治勝三也。紹外寬內忌、用人而疑之、所任唯親戚子弟、公外易簡而內機明、用人無疑、唯才所宜、不間遠近、此度勝四也。紹多謀少決、失在後事、公策得輒行、應變無窮、此謀勝五也。紹因累世之資、高議揖讓以收名譽、士之好言飾外者多歸之、公以至心待人、推誠而行、不爲虛美、以儉率下、與有功者無所吝、士之忠正遠見而有實者皆願爲用、此德勝六也。紹見人飢寒、恤念之形于顏色、其所不見、慮或不及也、所謂婦人之仁耳、公於目前小事、時有所忽、至於大事、與四海接、恩之所加、皆過其望、雖所不見、慮之所周、無不濟也、此仁勝七也。紹大臣爭權、讒言惑亂、公御下以道、浸潤不行、此明勝八也。紹是非不可知、公所是進之以禮、所不是正之以法、此文勝九也。紹好爲虛勢、不知兵要、公以少克衆、用兵如神、軍人恃之、敵人畏之、此武勝十也。」太祖笑曰「如卿所言、孤何德以堪之也!」嘉又曰「紹方北擊公孫瓚、可因其遠征、東取呂布。不先取布、若紹爲寇、布爲之援、此深害也。」太祖曰「然。」」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「術、欲結布爲援。乃爲子、索布女。布許之。術遣使韓胤以僭號議告布、幷求迎婦。沛相陳珪、恐術布成婚。則徐揚合從、將爲國難。於是往說布曰「曹公奉迎天子、輔讚國政、威靈命世、將征四海。將軍宜與協同策謀、圖太山之安。今與術結婚、受天下不義之名、必有累卵之危」布亦怨術初不己受也。女已在塗、追還絕婚。械送韓胤、梟首許市。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「會使者至、拜布左將軍」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴注「英雄記曰(中略)太祖又手書厚加慰勞布」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「布大喜、卽聽登往、幷令奉章謝恩。登見太祖、因陳「布勇而無計、輕於去就、宜早圖之」太祖曰「布、狼子野心、誠難久養。非卿莫能究其情也」卽增珪秩中二千石、拜登廣陵太守。臨別、太祖執登手曰「東方之事、便以相付」令登、陰合部衆、以爲內應。」
- ^ 『後漢書』呂布伝「袁術怒布殺韓胤,遣其大將張勛、橋蕤等與韓暹、楊奉連勢,步騎數万,七道攻布。布時兵有三千,馬四百匹,懼其不敵,謂陳珪曰:「今致術軍,卿之由也,為之奈何?」珪曰:「暹、奉與術,卒合之師耳。謀無素定,不能相維。子登策之,比於連雞,勢不俱棲,立可離也。」布用珪策,與暹、奉書曰:「二將軍親拔大駕,而布手殺董卓,俱立功名,當垂竹帛。今袁術造逆,宜共誅討,奈何與賊還來伐布?可因今者同力破術,為國除害,建功天下,此時不可失也。」又許破術兵,悉以軍資與之。暹、奉大喜,遂共擊勳等於下邳,大破之,生禽橋蕤,餘眾潰走,其所殺傷、墯水死者殆盡。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「建安三年、布復叛爲術。遣高順攻劉備於沛、破之。太祖遣夏侯惇救備、爲順所敗。」
- ^ 『三国志』蜀書先主伝裴注釈「英雄記曰。建安三年(中略)九月、遂破沛城、備單身走、獲其妻息。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「九月公東征布」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴注「獻帝春秋曰。太祖軍至彭城。陳宮謂布「宜逆擊之、以逸擊勞、無不克也。」布曰「不如待其來攻、蹙著泗水中。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「冬十月屠彭城、獲其相侯諧。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴注「先賢行狀曰。(中略)太祖到下邳、登率郡兵爲軍先驅。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「進至下邳、布自將騎逆擊。大破之、獲其驍將成廉。追至城下。」
- ^ 『後漢書』呂布伝「遺布書,為陳禍福。布欲降,而陳宮等自以負罪於操,深沮其計,而謂布曰:「曹公遠來,勢不能久。將軍若以步騎出屯於外,宮將餘眾閉守於內。若向將軍,宮引兵而攻其背;若但攻城,則將軍救於外。不過旬月,軍食畢盡,擊之可破也。」布然之。布妻曰:「昔曹氏待公檯如赤子,猶舍而歸我。今將軍厚公檯不過於曹氏,而欲委全城,捐妻、子,孤軍遠出乎?若一旦有變,妾豈得為將軍妻哉!」布乃止。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴松之注「英雄記曰。(中略)布欲令陳宮、高順守城、自將騎斷太祖糧道。布妻謂曰「將軍自出斷曹公糧道是也。宮、順素不和、將軍一出、宮、順必不同心共城守也、如有蹉跌、將軍當於何自立乎?願將軍諦計之、無爲宮等所誤也。妾昔在長安、已爲將軍所棄、賴得龐舒私藏妾身耳、今不須顧妾也。」布得妻言、愁悶不能自決。 魏氏春秋曰。陳宮謂布曰「曹公遠來、勢不能久。若將軍以步騎出屯、爲勢於外、宮將餘衆閉守於內、若向將軍、宮引兵而攻其背、若來攻城、將軍爲救於外。不過旬日、軍食必盡、擊之可破。」布然之。布妻曰「昔曹氏待公臺如赤子、猶舍而來。今將軍厚公臺不過於曹公、而欲委全城、捐妻子、孤軍遠出、若一旦有變、妾豈得爲將軍妻哉!」布乃止。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴松之注「英雄記曰。布遣許汜、王楷告急于術。術曰「布不與我女、理自當敗、何爲復來相聞邪?」汜、楷曰「明上今不救布、爲自敗耳!布破、明上亦破也。」術時僭號、故呼爲明上。術乃嚴兵爲布作聲援。布恐術爲女不至、故不遣兵救也、以綿纏女身、縛著馬上、夜自送女出與術、與太祖守兵相觸、格射不得過、復還城。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「時公連戰、士卒罷、欲還。用荀攸郭嘉計、遂決泗沂水、以灌城。」
- ^ 『三国志』魏書荀攸伝「至下邳。布敗退、固守。攻之不拔、連戰、士卒疲、太祖欲還。攸與郭嘉、說曰「呂布、勇而無謀。今三戰皆北、其銳氣衰矣。三軍以將爲主、主衰則軍無奮意。夫陳宮有智而遲。今及布氣之未復宮謀之未定、進急攻之、布可拔也」乃引沂泗、灌城。城潰、生禽布。」
- ^ 『三国志』魏書郭嘉伝「征呂布、三戰破之。布退固守。時士卒疲倦、太祖欲引軍還。嘉說太祖急攻之、遂禽布。語在荀攸傳。」
- ^ a b 『三国志』魏書呂布伝「太祖塹圍之三月、上下離心、其將侯成宋憲魏續、縛陳宮、將其衆降。」
- ^ a b 『三国志』魏書呂布伝裴注「九州春秋曰。初、布騎將侯成遣客牧馬十五匹、客悉驅馬去、向沛城、欲歸劉備。成自將騎逐之、悉得馬還。諸將合禮賀成、成釀五六斛酒、獵得十餘頭豬、未飲食、先持半豬五斗酒自入詣布前、跪言「閒蒙將軍恩、逐得所失馬、諸將來相賀、自釀少酒、獵得豬、未敢飲食、先奉上微意。」布大怒曰「布禁酒、卿釀酒、諸將共飲食作兄弟、共謀殺布邪?」成大懼而去、棄所釀酒、還諸將禮。由是自疑、會太祖圍下邳、成遂領衆降。」
- ^ a b 『後漢書』呂布伝「曹操塹圍之,壅沂、泗以灌其城,三月,上下離心。其將侯成使客牧其名馬,而客策之以叛。成追客得馬,諸將合禮以賀成。成分酒肉,先入詣布而言曰:「蒙將軍威靈,得所亡馬,諸將齊賀,未敢嘗也,故先以奉貢。」布怒曰:「布禁酒而卿等醖釀,為欲因酒共謀布邪?」成忿懼,乃與諸將共執陳宮、高順,率其眾降。」
- ^ a b 『後漢書』呂布伝「布與麾下登白門樓。兵圍之急,令左右取其首詣操。左右不忍,乃下降。(中略)布及宮、順皆縊殺之,傳首許市。」
- ^ a b 『三国志』魏書呂布伝「布與其麾下登白門樓。兵圍急,乃下降。遂生縛布,布曰:「縛太急,小緩之。」太祖曰:「縛虎不得不急也。」布請曰:「明公所患不過於布,今已服矣,天下不足憂。明公將步,令布將騎,則天下不足定也。」太祖有疑色。劉備進曰:「明公不見布之事丁建陽及董太師乎!」太祖頷之。布因指備曰:「是兒最叵信者。」」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴注「英雄記曰。布謂太祖曰「布待諸將厚也、諸將臨急皆叛布耳。」太祖曰「卿背妻、愛諸將婦、何以爲厚?」布默然。獻帝春秋曰。布問太祖「明公何瘦?」太祖曰「君何以識孤?」布曰「昔在洛、會溫氏園。」太祖曰「然。孤忘之矣。所以瘦、恨不早相得故也。」布曰「齊桓舍射鉤、使管仲相。今使布竭股肱之力、爲公前驅、可乎?」布縛急、謂劉備曰「玄德、卿爲坐客、我爲執虜、不能一言以相寬乎?」太祖笑曰「何不相語、而訴明使君乎?」意欲活之、命使寬縛。主簿王必趨進曰「布、勍虜也。其衆近在外、不可寬也。」太祖曰「本欲相緩、主簿復不聽、如之何?」」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「太祖之禽宮也,問宮欲活老母及女不?宮對曰:「宮聞孝治天下者不絕人之親,仁施四海者不乏人之祀,老母在公,不在宮也。」太祖召養其母終其身,嫁其女。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴注「魚氏典略曰(中略)太祖謂宮曰「公臺、卿平常自謂智計有餘、今竟何如?」宮顧指布曰「但坐此人不從宮言、以至于此。若其見從、亦未必爲禽也。」太祖笑曰「今日之事當云何?」宮曰「爲臣不忠、爲子不孝、死自分也。」太祖曰「卿如是、奈卿老母何?」宮曰「宮聞將以孝治天下者不害人之親、老母之存否、在明公也。」太祖曰「若卿妻子何?」宮曰「宮聞將施仁政於天下者不絕人之祀、妻子之存否、亦在明公也。」太祖未復言。宮曰「請出就戮、以明軍法。」遂趨出、不可止。太祖泣而送之、宮不還顧。宮死後、太祖待其家皆厚於初。」
- ^ 『後漢書』呂布伝「操謂陳宮曰:「公臺平生自謂智有餘,今意何如?」宮指布曰:「是子不用宮言,以至於此。若見從,未可量也。」操又曰:「柰卿老母何?」宮曰:「老母在公,不在宮也。夫以孝理天下者,不害人之親。」操復曰:「柰卿妻子何?」宮曰:「宮聞霸王之主,不絕人之祀。」左傳曰:「齊桓公存三亡國。」固請就刑,遂出不顧,操為之泣涕。」
- ^ a b 『三国志』魏書呂布伝「於是縊殺布。布與宮順等皆梟首送許、然後葬之。」
- ^ a b 『三国志』魏書張遼伝「太祖破呂布於下邳、遼將其衆降、拜中郎將、賜爵關內侯。」
- ^ 『三国志』魏書陳羣伝「屬呂布破、太祖辟羣爲司空西曹掾屬。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「太山臧霸孫觀吳敦尹禮昌豨、各聚衆。布之破劉備也、霸等悉從布。布敗、獲霸等、公厚納待。遂割青徐二州附於海、以委焉。分瑯邪東海北海、爲城陽利城昌慮郡。」
- ^ 『三国志』魏書武帝紀「備之未東也、陰與董承等謀反、至下邳。遂殺徐州刺史車冑、舉兵屯沛。遣劉岱王忠擊之、不克。廬江太守劉勳率衆降、封爲列侯。五年春正月、董承等謀泄。皆伏誅。公將自東征備、諸將皆曰「與公爭天下者、袁紹也。今紹方來而棄之東。紹乘人後、若何?」公曰「夫劉備人傑也、今不擊必爲後患。袁紹雖有大志、而見事、遲。必不動也」郭嘉亦勸公、遂東擊備破之。」
- ^ 『三国志演義』第18回
- ^ 『三国志』魏書夏侯惇伝「太祖自徐州還,惇從征呂布,為流矢所中,傷左目。」
- ^ 『三国志』魏書夏侯惇伝裴注「魏略曰:時夏侯淵與惇俱為將軍,軍中號惇為盲夏侯。惇惡之,每照鏡,恚怒,輒撲鏡於地。」
- ^ 『三国志』魏書呂布伝裴注「英雄記曰: ... 建安元年六月夜半時,布將河內郝萌反, ... 萌將曹性反萌,與對戰,萌刺傷性,性斫萌一臂。順斫萌首,牀輿性,送詣布。布問性,言「萌受袁術謀,謀者悉誰?」性言「陳宮同謀。」時宮在坐上,靣赤,傍人悉覺之。布以宮大將,不問也。性言「萌常以此問,性言呂將軍大將有神,不可擊也,不意萌狂惑不止。」布謂性曰:「卿健兒也!」善養視之。創愈,使安撫萌故營,領其衆。」
- ^ a b c 『三国志演義』第19回
- ^ 『三国志』魏書呂布伝「布有良馬曰赤兔。」
- ^ 『三国志演義』第16回で、劉備が袁術軍に攻められた際に、仲裁に入った呂布が、150歩離れた位置に立てた戟に矢を当てられたら天の声として撤退するよう袁術軍の大将・紀霊を説得し、見事的中させたエピソードを踏まえている。呂布は当時袁術軍の方が劉備軍より強力であったために、劉備の命を救ったとみなし、自分が処刑されようとする今劉備も助命すべきだと主張した。
- ^ 『三国志演義』第12回で、濮陽にて曹操が陳宮の火計に嵌り討たれかけたエピソードを踏まえている。
- ^ 『三国志演義』第20回
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