襄陽の戦い
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襄陽の戦い | |
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戦争:襄陽の戦い | |
年月日:191年或いは192年 | |
場所:襄陽(現在の湖北省襄陽市襄州区) | |
結果:劉表軍が勝利し、孫堅は討死。 | |
交戦勢力 | |
劉表 | 袁術 |
指導者・指揮官 | |
劉表 黄祖 |
孫堅 † |
戦力 | |
20000 | 30000 |
損害 | |
一説に5000以上 | 600 |
襄陽の戦い(じょうようのたたかい)は、中国後漢末期の191年に、孫堅と劉表との間で行われた戦い。孫堅軍は終始優勢で戦を進め劉表軍を追い詰めたが、孫堅が戦死したため退却を余儀なくされた。
事前の経緯
191年4月、董卓が洛陽を焼き払い長安に逃亡すると、諸侯の間で内紛が起こったこともあり最終的に反董卓連合は瓦解した。諸侯はそれぞれの根拠地へ戻り、自衛や勢力拡張のため争い始めた。その中でも、同じ袁家の出身であり強大な勢力を誇っていた袁紹と袁術は対立を深めていった。荊州の劉表は袁紹と、北平の公孫瓚は袁術とそれぞれ同盟を結んだ。袁術は、中国南部から袁紹の影響力を排除するために、配下であった孫堅に劉表の勢力下にある荊州南郡の襄陽城攻撃を命じた。
南郡には東西に横切る形で漢水(長江の支流)が流れ、漢水を挟んで北に樊城、南に襄陽城が建っている。樊城・襄陽城は中国の中心に位置し、戦略上の非常に重要な拠点となっていた。三国時代に移った後も、この2城は重要拠点として頻繁に係争地となった。
戦いの経緯
孫堅は袁術から劉表討伐の命を受けると、南郡に向けて進軍を開始。孫堅軍来襲の報を聞くと、劉表はすぐに配下の黄祖を樊城へ派遣して、樊城と襄陽城の連携で敵を迎え撃とうとした。しかし孫堅の苛烈な攻勢の前に、黄祖は大敗しあっけなく樊城は陥落する。黄祖は襄陽に逃走し、追撃した孫堅は漢水を渡河すると、そのまま襄陽城を包囲した。
劉表は兵力を補充するために黄祖に兵士の徴用を命じ、黄祖は夜に紛れて襄陽城を脱出すると、密かに兵士をかき集めた。しかし、孫堅は黄祖の動きを見抜いており、待ち伏せて黄祖を襲撃した。攻撃を受けた黄祖は帰城できず、峴山のひそみに隠れこんだ。孫堅は勝ちに乗じて自ら先頭に立って黄祖を追撃し、その攻撃は夜中まで行われた。だが、樹木の影に隠れていた黄祖の部下が矢を放ち、それが孫堅に命中してそのまま孫堅は死亡した(配下の呂公が落とした石に当たって即死したという説もある)。これにより孫堅軍は瓦解し、南郡から撤退した。劉表軍の方がはるかに戦死者が多かったが、結果的に劉表は荊州を守り抜いた。
戦後
戦争終結後、孫堅配下の桓階は、危険を知りながら劉表に対し孫堅の遺体の引き取りを請うた。劉表は桓階の行為を義と判断し、申し入れを受諾した。孫堅の軍は一時的に甥の孫賁が引き継ぎ、孫賁は孫堅配下の将を引き連れて寿春にいる袁術の傘下に入った。
劉表はこの戦での勝利によって、荊州での影響力を大きく拡大させる。後に、孫堅の息子である孫策が江東で地盤を確立する(孫策の江東平定)と、父の仇として狙われた劉表は何度も孫策から攻撃を受け、弟の孫権の代になっても抗争は続いた。だが、劉表は208年に亡くなるまでその勢力を保ち続けた。
『三国志演義』における襄陽の戦い
孫堅は、焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して陵墓を塞いでいたその最中、宮中の古井戸から伝国璽を発見する。孫堅は野心を胸に抱くようになり、発見した玉璽を隠匿するが、現場を目撃した者が袁紹に告げ口したので、孫堅は諸侯の前で釈明を求められる。孫堅はそこで「真実、俺が玉璽を隠匿していたならば、命を全うする事なく戦禍によって死ぬ事になるだろう」と啖呵を切り、嘘をつき通したので、諸侯はその言葉を信用する。しかし、袁紹が証人を場に呼ぶと、孫堅は咄嗟に剣を抜き、切り捨てようとする。これら一連の行為によって分の悪くなった孫堅は、洛陽からいち早く陣を引き上げる。諸侯は疑心暗鬼に陥り、反董卓連合軍は解散。ますます疑いを深めた袁紹は、帰途にある孫堅を劉表に攻撃させ、玉璽を奪う事を画策する。
長沙に帰還を果たしたものの、劉表に帰還を妨害された孫堅は兵の大半を失い、劉表に恨みを抱く。些細な事で袁紹と不和になっていた袁術は、孫堅に劉表を攻撃させる事で、袁紹の力を削ぐ事を企て、孫堅に対して江夏攻略を命令する。この戦いにおいて孫堅は、黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲すると、囲みを解こうと出撃した蔡瑁にも圧勝する。その最中、包囲軍本陣の帥字旗がにわかに吹き起こった狂風で折れるという凶事が起こった。このため、韓当が「これは不吉の兆しなので退くべきでは」と進言する。しかし、孫堅は聞く耳を持たずに出陣し、蒯良の策謀で呂公がしかけた伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰されて死亡した。その死体は劉表軍により持ち去られたが、捕虜となっていた黄祖の身柄と引き換えに、この時参陣していた孫策のもとに引き渡された。
襄陽の戦い
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太元2年(377年)の夏頃、征西大将軍桓豁の上表により、朱序は使持節・監沔中諸軍事・南中郎将・梁州刺史に任じられ、襄陽に駐屯した。 太元3年(378年)2月、前秦君主苻堅は襄陽攻略を目論み、長楽公苻丕・尚書司馬慕容暐・武衛将軍苟萇・荊州刺史楊安らに7万の軍勢を与えて長安より出撃させた。また、征虜将軍石越には騎兵1万を与えて魯陽関より、京兆尹慕容垂・揚武将軍姚萇には5万の兵を与えて南郷より、領軍将軍苟池・右将軍毛当・強弩将軍王顕には精鋭4万を与えて武当より各々出撃させ、苻丕軍と合流させた。 4月、前秦軍は漢陽において合流すると、沔北まで軍を進めた。朱序は前秦軍に船が無い事から、当初はこれを危惧していなかったが、石越軍が漢水を馬で渡河するのを見て驚愕し、すぐさま中城(襄陽城の内郭)の守りを固めた。石越軍は渡河を完了させると、勢いのままに襄陽城の外郭を攻め落として船百艘余りを鹵獲し、その船を使って残りの全軍を渡河させた。苻丕は諸将を統率して中城を攻撃すると共に、苟池・石越・毛当には兵5万を与えて江陵へ向かわせた。 朱序の母である韓氏は自ら城上に登ると、城の西北の一角が脆くなっている事に気づいた。その為、百人あまりの婢(女性の奴隷)や城中の女子供を動員し、20丈余りの城郭を築き上げた。その後、前秦軍が攻勢に出ると、果たして西北は潰えてしまったが、朱序の兵は新たに築かれた城を守ったので、抗戦を続ける事が出来た。襄陽の民はこの城を夫人城と呼んだという。 車騎将軍桓沖は兵7万を擁して朱序の救援に向かおうとしたが、江陵を押さえていた苟池軍に恐れをなして進む事が出来ず、上明に留まっていた。その為、朱序は孤立無援のまま防戦を強いられる事となったが、前秦軍は急攻せずに兵糧攻めを選択し、朱序もまた巧みに城を守ったので、その包囲は長期に及んだ。 太元4年(379年)1月、冠軍将軍劉波は8千の兵を率いて襄陽救援に向かったが、彼もまた前秦軍を恐れて進軍を止めてしまった。 前秦軍は食料が次第に尽き始め、また襄陽攻略の遅れについて苻堅から叱責を受けたこともあり、包囲を強めて総攻撃を開始した。朱序は自ら出撃して前秦軍と交戦すると、幾度もこれを破った。これにより、前秦軍は軍をやや遠くに後退させた。だが、これを見た襄陽の兵は安心してしまい、備えをやや緩めてしまったという。 2月、襄陽督護李伯護は密かに自らの子を前秦の陣営へ送り、前秦軍が攻勢を掛けるならば内から応じる事を約束した。これを受け、苻丕は諸軍に一斉攻撃を命じると、約束通り李伯護はこれに呼応した。内外から攻められた朱序はこれに抗する事が出来ず、遂に襄陽は陥落してしまった。朱序は捕らわれの身となって長安へ送られた。苻堅は朱序がよく節を守った事を称える一方、逆に李伯護が忠を尽くさなかった事を咎めて斬首した。 その後、朱序は脱走を図って宜陽県に潜伏すると、夏揆という人物の家に匿われた。だが、夏揆が疑われて収監されると、朱序は洛陽を鎮守する平原公苻暉のもとに赴いて自首した。苻堅はその帰順を喜んで一切罪には問わず、度支尚書に抜擢した。
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