孫堅の台頭と孫策の江東平定
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「呉 (三国)」の記事における「孫堅の台頭と孫策の江東平定」の解説
孫堅は呉の力弱い豪族と呼ばれる出身であった。孫堅の家は代々、呉郡富春県(浙江省)で役人をしており、その家格は低く、家柄が重視されていた後漢の政界の中では軽視されていた(ただし韋昭の『呉書』によると、孫堅一族は『孫子』の著者孫武の末裔だと称して、代々小役人をつとめたと記している)。治世に各地の県丞を歴任した。しかし自らの実力をもって徐々に位を上げていき、黄巾の乱においては朱儁の配下に入り、功績を挙げて戦後に別部司馬(別働隊をの指揮を執る武将)となった。戦後も辺章・韓遂の反乱鎮圧に功績を挙げて長沙太守に任ぜられた。 189年に洛陽で董卓が暴政を布いて関東諸豪族の反感を買い、反董卓連合軍が結成されると、孫堅も出兵してその中途に武陵太守の曹寅が光禄大夫の温毅の檄文を偽造した偽の檄文を受け取って、荊州刺史王叡・南陽太守張咨らを殺害し、そのまま南陽に乗り込んだ袁術の配下に入った。 連合軍は初めから戦意に薄かったが、袁術と孫堅は董卓と一進一退の攻防を繰り返し、董卓の武将・華雄を討ち取り、呂布を撃退した。その後、董卓は洛陽を焼き払い、歴代皇帝の陵墓を荒らして西の長安へと去っていった。孫堅は主のいなくなった洛陽に入り、復興と陵墓の修復に当たった。また、これに前後して豫州刺史の孔伷が亡くなったため、孫堅は袁術の上表により、行破虜将軍(破虜将軍代行)・豫州刺史の位を得た。 しかし、袁紹は孫堅を豫州刺史と認めず、豫州刺史として周喁を送り込み、袁術・孫堅らと対立する。これによって連合軍は完全に崩壊し、袁術・孫堅は袁紹・周喁と豫州を巡って戦争になる。反攻の機会と見た董卓は洛陽を再占領するために朱儁を送り込むが、朱儁は董卓を裏切って袁術のもとに降伏し、中牟に駐屯した。 荊州刺史の劉表は反董卓連合が結成された当時は袁術との関係は良好だったが、二袁の争いで袁紹側についていたため、関係が悪化。袁術は劉表討伐に乗り出す。191年もしくは192年、孫堅は襄陽に侵攻し、劉表の部将である黄祖の軍を打ち破るが、追撃途中に流れ矢(一説には落石)に当たって死亡した(襄陽の戦い)。 孫堅亡き後、その軍団は甥の孫賁の指揮の元に袁術の旗下に入り、長男の孫策は兵を取り上げられ、全く力を失った。しかし父と同じようにその状況からのし上り、袁術から貰ったわずか1,000ばかりの兵を元に江東(長江の東、江蘇省・安徽省)の劉繇・王朗らを撃破、またたく間に江東を制覇した。孫策の周りには程普・黄蓋・韓当ら孫堅時代からの配下に加え、周瑜・太史慈・張昭・張紘・魯粛などの人材が集まり、その伸張ぶりから「項羽に似る」と評された(孫策の江東平定)。 197年、袁術が皇帝を僭称するということが起きた。大勢力を蓄え、もはや袁術に従う理由がなかった孫策にとってこれは渡りに船であり、袁術と絶交し、献帝を手中にして道義的正当性を手に入れていた曹操に付くことにした。曹操も四方に敵を抱えている状態であったのでこれを喜び、曹操の弟の娘が孫策の弟の孫匡に嫁ぐことで同盟が成立し、孫策は討逆将軍・呉侯の位を得た。孫策はさらに長江の北にいる劉勲を討ち、父の仇である黄祖を散々に打ち破った。 200年、北の曹操は袁紹との官渡の戦いに入り、首都の許昌の防衛はかなり薄かった。これに乗じて孫策は許都侵攻作戦を企てる。ところがその矢先、孫策はかつて殺した許貢の息子とその食客による襲撃を受け重傷を負い、命を落とす。曹操の幕僚である郭嘉は「孫策は江東を制覇したが、いまだしっかりとは治まっておらず、いずれ刺客により殺害されるだろう」と言っている。
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