孫堅の没年と死因
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孫堅の没年と死因については、陳寿の『三国志』や裴松之が掲載した注釈、あるいは後の史書類によって異同が見られる。以下、列挙する。 陳寿の本文(『三国志』呉志 孫破虜伝) 初平3年(192年)、荊州の劉表を討伐しようとした際、単独行動中に黄祖配下の兵士によって射殺される。『三国志』魏志 劉表伝では、その後に李傕と郭汜の長安侵入が記載されており、孫堅の死は概ね1月から4月までの間と特定される。 『三国志』呉志 孫破虜伝・注『典略』 没年の記載なし。劉表は籠城を決め込む一方で黄祖を城外に出し、徴兵をさせた。城へ戻る途中で孫堅と交戦し敗北したが、茂みに隠れていた兵士が追撃をしてきた孫堅を射殺したとある。 『三国志』呉志 孫破虜伝・注『呉録』 このとき37歳。本項では以上の3説を概ね採用した。 『三国志』呉志 孫破虜伝・注『英雄記』 初平4年(193年)正月7日に死去。死因は劉表配下の呂公が伏せておいた伏兵に遭い、落石が頭部に当たったことによる。死因については『三国志演義』に採用された。なお、『演義』では初平2年11月に死亡したとする。 『三国志』呉志 孫討逆伝・注『呉録』内、孫策の上表 孫堅が死んだとき、孫策は17歳だったと記載している。 『三国志』呉志 孫討逆伝・裴松之の考察 孫策の享年(26)から逆算すると、初平3年のとき孫策は18歳であったはずであり、『呉録』上表の記述と一致しない。また、『漢紀』と『呉歴』はそれぞれ初平2年(191年)に死亡したと記述しており、こちらが正しく本伝は間違っていると断定する。 『後漢書』孝献帝紀 初平3年、界橋の戦い(袁紹と公孫瓚との戦い)の前に記載。董卓の死はさらにその後である。 『資治通鑑』巻60・漢紀52 初平2年の条に記載。
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