孫呉の柱石へ
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建興2年(253年)、諸葛恪が誅殺されると、妻がその姪であったため、離縁した。 太平2年(257年)、寿春において魏の諸葛誕が反乱を起こし、呉に降伏を申し出て援軍を求めてきた。陸抗は柴桑の督に任命され、救援のため寿春に赴いた。陸抗は魏の偏将軍や牙門将を打ち破った功績で、征北将軍に昇進したという。 この時、朱異が魏の大軍の前に敗戦を重ねた後、総大将の孫綝に呼び出された。陸抗は警戒するように忠告したが、朱異は聞き入れず、結局孫綝に殺害された。 孫休の代となった永安2年(259年)、鎮軍将軍に任命され、西陵と関羽瀬から白帝城までの地域における軍事の総指揮を執る事になった。永安3年(260年)、仮節を与えられた。 永安7年(264年)、前年に蜀漢が魏の攻撃により降伏した。蜀と同盟関係にあった呉は、歩協に対し援軍を送ると称して永安城(白帝城)を攻めさせたが、蜀の旧将であった羅憲に破られた。同年2月、陸抗はその援軍として3万を率いて、歩協・留平・盛曼らと共に永安城を囲んだが、羅憲の抵抗の前に半年間たっても落す事はできなかった。同年秋7月、魏の司馬昭が派遣した荊州刺史胡烈の援軍が到着したために、永安城の包囲を解き退却した。 孫晧時期となると、族兄の陸凱が左丞相となり補佐した。陸凱は建衡元年(269年)に死去したが、多くの有為の人材と共に族弟の陸喜・陸抗を重用すべしと述べたという。陸凱の死後、生前の陸凱を憎んでいた孫晧はその家族を迫害しようとしたが、陸抗の力を恐れて、陸抗の存命中はそれを決行できなかったという。 建衡2年(270年)夏4月、大司馬の施績が死去し、陸抗が都督西陵・夷道・信陵・楽郷・公安における諸軍事の総指揮を執る事になった。 陸抗は都下における行政に問題点が多い事を聞き、上疏して17箇条の方策を進言したという。また、孫晧の寵臣の何定や宦官らが専横している事を聞き、諫言の上疏をした。
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