孫呉の人々
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『演義』において魏・蜀漢とならび、もう一方の当事者である孫呉の人物たちの扱いは非常に軽く、取り上げられるにしても徹底した道化役であり、冷笑・蔑視を含んだものとなっている。正史においても、呉の建国に関わった孫家一族や周瑜・魯粛・呂蒙といった将軍たちは比較的淡々と描写されており、魏や蜀漢に較べ扱いも軽い。それに対し、正史の註釈を挿入した裴松之は呉と同じ江南を本拠とした東晋の人物であり、若干呉びいきの傾向が見られ、呉書に対して多くの逸話を注釈として挿入している。『演義』でも孫家は劉備・曹操と較べて影が薄く、呉の武将の描かれ方にもやや悪意を含む箇所が多い。ただし『演義』を校訂・整理した毛宗崗は孫堅父子のファンであり、毛本では"羅貫中"による孫一族に対する軽視・蔑視に対して、たびたび怒りを込めた批評を施している。このように『演義』においては孫呉の人々は必要以上に小人物として描かれたり、また彼ら自身の功績を蜀の武将にすり替えられたりすることが多い。 たとえば孫堅は、第6回に洛陽で偶然入手した伝国の玉璽に狂喜し、袁紹らから所在を詰問されても白を切り通すなど、小人物として描かれている。孫策もまた短気な若者として描かれ、その最期も于吉を殺したせいで亡霊に翻弄されて衰弱死するという悲惨なものとなっている。孫策と于吉の話は正史には全く登場しないが、裴注に引く『江表伝』には孫策が于吉を殺したことが見え、同じく裴注にある怪異譚『捜神記』(干宝撰)に孫策が于吉の亡霊に祟り殺された件が載り、これを元に話を膨らませたものである。『平話』に至っては孫策はほとんど名前しか登場しない。またさらに扱いがひどいのが呂蒙で、関羽の怨霊に呪い殺されるという惨めな最期が描かれる。 功績のすり替えについては、正史における孫堅の最大の殊勲である「華雄を斬る」も、関羽が行ったことに変更されている。また孫権の船に敵の曹操軍から大量の矢を射られた際、矢が刺さって船の片側だけが重くなったため、船を反転して逆側にも矢を受けて船の重心が戻ったという逸話が裴注『魏略』に載るが、赤壁の戦いの前に周瑜に命じられて十万本の矢を敵から借りるという諸葛亮の功績にすり替えられている。孫呉最大の見せ場である赤壁の戦いで活躍した本来の英雄周瑜や魯粛もまた『演義』においては、脇役・道化役として戯画化される。すでに『平話』の段階でも傾向は見られるが、『演義』の赤壁の戦いは、物語に登場したばかりの諸葛孔明の活躍場所として功績がすり替えられており、周瑜は孔明を引き立てる役のみ割り振られている。孔明に挑発されては怒り、その計略に陥れられる話が繰り返し語られ、荊州争奪に及んで怒りのあまり死亡してしまう。これらはすべて孔明の知謀を引き立たせるための演出である。魯粛も孔明と周瑜の間を伝言するだけの道化として描かれ、関羽との外交交渉「単刀会」において、正論を吐く姿も、部下を叱咤する毅然とした行為も、すべて逆に関羽とすり替えられてしまっている。 以上のような『演義』における呉の人物の扱いは、「第三極」という物語上での呉の立ち位置や、神格化された英雄関羽と敵対した史実に起因する。劉備・曹操という二極対立だけでは物語が単純になる。そこに第三極が加入することで、三者間の関係性のバリエーションは飛躍的に増加し、物語にも幅が加わる。しかし『演義』を貫く対立軸はあくまで蜀と魏の間の抗争である(史実でも呉-魏、呉-蜀間はそれぞれ同盟から反目まで幅があったが、魏-蜀間の関係は常に険悪で連携はあり得なかった)。つまり物語上、呉は第三極という存在自体にこそ意味があるものの、その内部事情についてはあまり大きな関心が払われることがないのである。実際『演義』以上に劉備・曹操の二極対立のみに注目する『平話』においては、孫堅や孫策はほぼ名前しか登場せず、その死すら描かれることはない。そして魏・蜀対立のキャスティングボートを握る立場なだけに、蜀(劉備)と同盟関係にある間のみは、孫権が肯定的に語られる。しかし荊州を巡る争奪で劉備と対立していくにつれて、否定的な記述が多くなり、関羽を処刑する段になると、毛宗崗が露骨に怒りを示すほど孫権や呂蒙を貶める描写が続く。『演義』編者は最も思い入れを込めて描いたキャラクターである関羽を死に追いやった孫権や呂蒙に対して、明らかに好感情を持っておらず、それが孫一族全体の記述にまで影響した可能性が高い。こうした理由で『演義』において孫家や呉の将軍たちは、道化的な役割のみ与えられることとなった。 夷陵の戦いで陸遜が劉備を退けた後、再び呉は蜀漢と講和するが、記述はさらに少なくなり、陸遜も孫権もいつの間にか物語から退場してしまう。また、呉の滅亡による西晋の天下統一で物語の締めくくりとなるため、最後まで好意的に書かれることはほとんどない。簡略な記述ながら、呉の最後の皇帝となった孫晧の暴虐は、史実よりさらに誇張されている。ただし、最後に西晋に降伏するくだりでは、西晋の司馬炎に迎えられた席で、孫皓もまた自国に司馬炎の席を用意していたこと、また孫皓が賈充の不忠(曹髦殺害)を揶揄するエピソードを入れることで、敗者の矜恃を示して幕としている。
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