孫呉の人々とは? わかりやすく解説

孫呉の人々

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)

三国志演義の成立史」の記事における「孫呉の人々」の解説

演義』において魏・蜀漢とならび、もう一方当事者である孫呉人物たちの扱いは非常に軽く取り上げられるにしても徹底した道化役であり、冷笑蔑視含んだものとなっている。正史においても、呉の建国に関わった孫家一族周瑜魯粛呂蒙といった将軍たちは比較淡々と描写されており、魏や蜀漢較べ扱いも軽い。それに対し正史註釈挿入した裴松之は呉と同じ江南本拠とした東晋人物であり、若干呉びいきの傾向見られ呉書に対して多く逸話注釈として挿入している。『演義』でも孫家劉備曹操較べて影が薄く、呉の武将描かれ方にもやや悪意を含む箇所が多い。ただし『演義』を校訂整理した毛宗崗は孫堅父子ファンであり、毛本では"羅貫中"による孫一族に対す軽視蔑視に対して、たびたび怒り込めた批評施している。このように演義においては孫呉の人々は必要以上に小人物として描かれたり、また彼ら自身功績を蜀の武将すり替えられたりすることが多い。 たとえば孫堅は、第6回洛陽で偶然入手した伝国の玉璽狂喜し袁紹らから所在詰問されても白を切り通すなど、小人物として描かれている。孫策もまた短気な若者として描かれその最期于吉殺したせいで亡霊翻弄され衰弱死するという悲惨なものとなっている。孫策于吉の話は正史には全く登場しないが、裴注に引く『江表伝』には孫策于吉殺したことが見え同じく裴注にある怪異譚『捜神記』干宝撰)に孫策于吉亡霊祟り殺された件が載り、これを元に話を膨らませたものである。『平話』に至って孫策はほとんど名前しか登場しない。またさらに扱いがひどいのが呂蒙で、関羽怨霊呪い殺されるという惨めな最期描かれる功績すり替えについては、正史における孫堅最大殊勲である「華雄斬る」も、関羽が行ったことに変更されている。また孫権の船に敵の曹操軍から大量の矢を射られた際、矢が刺さって船の片側だけが重くなったため、船を反転して逆側にも矢を受けて船の重心戻ったという逸話が裴注『魏略』に載るが、赤壁の戦い前に周瑜命じられ十万本の矢を敵から借りるという諸葛亮功績すり替えられている。孫呉最大見せ場である赤壁の戦い活躍した本来の英雄周瑜魯粛もまた『演義においては脇役道化役として戯画化される。すでに『平話』の段階でも傾向見られるが、『演義』の赤壁の戦いは、物語登場したばかりの諸葛孔明活躍場所として功績すり替えられており、周瑜孔明引き立てる役のみ割り振られている。孔明挑発されては怒り、その計略に陥れられる話が繰り返し語られ荊州争奪及んで怒りのあまり死亡してしまう。これらはすべて孔明知謀引き立たせるための演出である。魯粛孔明周瑜の間を伝言するだけの道化として描かれ関羽との外交交渉単刀会」において、正論を吐く姿も、部下叱咤する毅然とした行為も、すべて逆に関羽すり替えられてしまっている。 以上のような『演義』における呉の人物の扱いは、「第三極」という物語上での呉の立ち位置や、神格化され英雄関羽敵対した史実起因する劉備曹操という二極対立だけでは物語単純になる。そこに第三極加入することで、三者間の関係性バリエーション飛躍的に増加し物語にも幅が加わる。しかし『演義』を貫く対立軸はあくまで蜀と魏の間の抗争である(史実でも呉-魏、呉-蜀間はそれぞれ同盟から反目まで幅があったが、魏-蜀間の関係は常に険悪連携はあり得なかった)。つまり物語上、呉は第三極という存在自体にこそ意味があるものの、その内事情についてはあまり大きな関心払われるとがないのである実際演義以上に劉備曹操二極対立のみに注目する平話においては孫堅孫策はほぼ名前しか登場せず、その死す描かれることはない。そして魏・蜀対立キャスティングボートを握る立場なだけに、蜀(劉備)と同盟関係にある間のみは、孫権肯定的に語られる。しかし荊州を巡る争奪劉備対立していくにつれて否定的な記述多くなり、関羽処刑する段になると、毛宗崗が露骨に怒りを示すほど孫権呂蒙貶める描写が続く。『演義編者は最も思い入れ込めて描いたキャラクターである関羽死に追いやった孫権呂蒙に対して明らかに好感情を持っておらず、それが孫一全体記述にまで影響した可能性が高い。こうした理由で『演義』において孫家や呉の将軍たちは、道化的な役割のみ与えられることとなった夷陵の戦い陸遜劉備退けた後、再び呉は蜀漢講和するが、記述はさらに少なくなり、陸遜孫権いつの間に物語から退場してしまう。また、呉の滅亡による西晋天下統一物語締めくくりとなるため、最後まで好意的に書かれることはほとんどない簡略な記述ながら、呉の最後の皇帝となった孫晧暴虐は、史実よりさらに誇張されている。ただし、最後に西晋降伏するくだりでは、西晋司馬炎迎えられた席で、孫皓もまた自国司馬炎の席を用意していたこと、また孫皓賈充不忠曹髦殺害)を揶揄するエピソード入れることで、敗者矜恃示して幕としている。

※この「孫呉の人々」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「孫呉の人々」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。

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