怪異譚
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339年、大規模な旱魃が発生し、さらに天には白虹が見られた。石虎は下書して「朕は在位すること6年、上は乾象を和する事が出来ず、下は黎元を救う事が出来なかった。故に星虹の変が生じてしまった。そこで百僚は各々封事を上奏するように。また、西山の禁を解き、蒲葦・魚塩を歳供から除外し、厳しくする事のないように。公侯卿牧は山沢を占有して、百姓の利を奪う事の無い様に」と述べた。また下書して「以前、豊国・澠池に各々建物を建築し、刑徒を配分して移し、時務を救わんとしてきた。それがいつしか慣例の法となってしまい、怨声が起こるに至った。今より罪人や流民については全て申奏し、たやすく配する事のないように。京獄の囚人の中で殺人を犯した者以外は、一律にみな赦免し釈放する」と述べた。すると、この日に雨が降り始めたという。 342年、青州より上言があり『済南の平陵城の北にある石の虎が、一夜にして忽ち城東南の善石溝に移り、さらに狼狐千匹余りがこれに付き従い、その跡で路が形成された』との事であった。これに石虎喜んで「石の虎とは朕の事である。平陵城北から東南に移ったというのは、朕が江南を平蕩する事を天が望んでるという事だ。天命に違ってはならぬ。諸州に命じ、翌年には全ての兵を集結させるようにせよ。朕自らが六軍を率い、成路の祥を現実としてみせよう」と大いに喜んだ。群臣はみなこれを祝賀し、『皇德頌』を献上した者は107人に及んだ。だが、これを機に妖異な現象が頻発し始めた。泰山では石が燃え、8日後に消滅した。東海では大石が自ら立ち、傍らには血が流れていた。鄴の西山の石間から血が流れ出し、長さ10歩余り、広さ2尺余りに及んだ。太武殿には古の賢人が描かれていたが、その全てが胡人に変貌し、10日余りすると尽く頭が縮んで肩中に没もれてしまった。石虎はこの現象に大いに不快感を覚え、仏図澄は何かを悟って涙を流した。 344年、白虹が太社より現れ、鳳陽門を経て東南の空へ連なり、10刻余りで消滅した。これを聞いた石虎は下書して「思うに、古えの明王が天下を理する時、政においては均平を首とし、化においては仁恵を本とした。故に人和を允協する事が出来、神物に光明させる事が出来た。朕は眇薄でありながら万邦に君臨し、朝夕に勉め怠る事無く、古烈を遵う事を思ってきた。そこで書を下して、徭賦を免除して黎元を休息させ、俯して百姓を安んじ、仰しては三光(日・月・星)を稟する事を願うものである。中年以来、変異が次第に顕著となり、天文も錯乱し、時気が応じていない。これは下において人が怨んでおり、その譴を皇天が感じているからであろう。朕は不明といえども、公卿もまた翼を支える事が出来ていない。昔、楚相は政を修めた事で洪災が一回りして鎮まり、鄭卿は道を厲いだ事で霧気が自ずと消えたという。いずれも股肱の良が群変を康らかとしたのである。群公卿士の各々は才徳がありながら国家に尽くさず、成敗について黙り込んで何もしていないのに、どうして台輔の百司を望めようか!各々封事を上奏し、極言して隠す事の無いように」と述べ、鳳陽門を閉鎖して元日にのみ開くようにした。また、霊昌津に2つの祭場を立て、天と五郊を祠った。 344年、石虎は霊昌津に橋を掛けようと考え、採石させて橋の基礎を築こうとした。しかし、石の大きさが揃わず、また流れが急であったため流されてしまった。功夫500万余りを動員しても完成が出来なかった。その為、石虎は使者を派遣して祭を行わせ、璧を河に沈めさせた。俄かに渚上に流れ着くと、地震が起こって水波が立ち上り、その波によって殿観は全て倒壊してしまい、下敷きになって死んだ者が100人余りに及んだ。石虎は激怒し、工匠を斬り捨てると共に橋の建造を取りやめた。 347年、石虎は邯鄲城西の石子堈の上にある趙簡子の墓を暴くよう命じた。掘り始めると、初めに深さ1丈余りの炭が出てきて、次いで厚さ1尺の木板が現われ、積み上げると厚さ8尺となった。さらには水脈に達し、その水は非常に清冷であった。その為、絞車を造り、牛の皮嚢を用いて、水を汲み出した。しかし、1カ月以上経過しても水は尽きなかったので、それ以上掘る事が出来ずに作業は中止された。そこで今度は秦始皇の塚を暴いて銅柱を取り出すと、器を鋳造した。 347年、揚州から黄鵠の雛五羽が送られてきた。その頸長は1丈あり、その声は十里余り先でも聞こえるといわれ、玄武池にこれらを放した。郡国からは相次いで蒼麟16頭、白鹿7頭が届けられた。そこで石虎は司虞張曷柱に命じて調教させ、芝蓋をつけた駕に繋ぐと、殿庭に列する際に乗った。 348年8月、東南では黄黒雲が起こり、大きさは数畝ほどであった。それはしばらくすると3つに分かたれ、形状は匹布の如しであった。東西へ天を経て、色は黒から青へと移り、酉時には日を貫き、日没後には7道へと分かれた。さらに、数十丈離れる毎に、間に魚鱗の様な白雲が起こり、子時になると消滅した。石韜が暗殺されるのはその日の夜の事であった。 349年、熒惑(火星)が積尸(パイ)を通過し、さらに昴・月を通過し、そのまま北の河鼓(アルタイル)を通過した。すると石虎の病状は急速に悪化したという。
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怪異譚
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張華の伝には怪異譚の類が数多く載せられている。『晋書』によると、張華は博識であった事からこの類の話は唐代においても多く存在しており、全てを採録する事は出来なかったという。 ある時、張華の封地である壮武郡で桑が変化して柏となった事があり、識者ですら詳しい事が分からなかった。またある時、張華の役宅や官舎には幾度も妖怪が出現したという。また張華が昼寝をした時、突然屋根が壊れ落ちる夢を見て、目覚めた後にその事を気味悪がった。禍が降りかかったのはその夜であったという。 295年10月に武庫で火事が起こった際、張華は1本の剣が屋根を突き破って飛んで行くのを見たが、その行先は誰にも分らなかったという。 司馬衷の時代、ある人が毛の長さが三丈もある鳥を発見し、張華に見せた。彼はこれを見ると「これは海鳧毛というものだ。これが現れる時、天下は乱れるといわれている」と述べ、慘然(憂いと悲しみにより、物思いに沈む事)としたという。 ある時、陸機は張華の家へ赴いて鮓(魚介類に塩を加えて漬け込み自然発酵させた食品)を贈った。その時、彼の家は大勢の賓客がおり、張華は器を開けると「これは龍の肉である」と言い放った。誰もこれを信じなかったが、張華は「試しに苦酒でこれを濯いでみよ。きっと何かが起こるであろう」と言った。実際にやってみた所、しばらくして五色の光が起こった。陸機は家に帰り、鮓を作った者にこの事を尋ねると、彼は「園中の茅の下で一匹の白魚を捕まえました。格好が変わっていたので、鮓を作ってみたところ、とても美味でしたので献上した次第です」と言う事であった。 洛陽の武庫は非常に厳重に封鎖されていたが、ある時にその中から忽然と雉の鳴き声が聞こえた事があった。この報告を聞いた張華は「これはきっと蛇が雉に化けているのであろう」と言い、武庫を開いてみたところ、予想通り雉の側には蛇の脱殻があったという。 ある時、呉郡の臨平にて岸が崩れ、一つの石鼓が出てきたが、叩いても音が出なかった。帝は不思議に思って張華に尋ねると、張華は「蜀の地にある桐材を魚の形に刻み、それで打てば鴫るでしょう」と言った。そこでその通りにしてみたところ、果たしてその音は数里先までも聞こえたという。 呉が滅びる以前の事、斗宿と牛宿の間にはいつも紫色の雲気が立ち上っており、これを見た道術師はみな呉の勢力が強盛であると判断し、討つのは時期尚早であると述べていたが、張華だけはこれに反論していた。呉が平定された後、紫気はいよいよはっきりと見えるようになった。張華は豫章出身の雷煥という人物が天文に明るいという話を聞き、雷煥を家に招待して泊まらせた。そして、人払いをしてから「共に天文を占い、将来の吉凶を知ろうではないか」と誘い、楼に登って空を仰ぎ観た。雷煥は「私は長い事観察を続けておりますが、斗牛の間にいささか異気があるのが見て取れます」と言った。張華は「それは何の兆しか」と問うと、雷煥は「宝剣の精気が立ち上り、天へ向かっております」と答えた。張華は「君の言葉はもっともだ。私が若い頃、人相見に看てもらうと、60歳を過ぎてから地位は三公に登り、宝剣を手に入れて腰に帯びるであろうと予言をした。この予言とよく似てはいるではないか」と言い、さらに「それはどこの郡から来ているか」と問うと、雷煥は「豫章の豊城からです」と答えた。張華は「そうであれば汝には(豊城の)宰となってもらい、密かに力を合わせてこれを捜し出そうと思うのだが、どうだろうか」と持ち掛けると、雷煥は承諾した。張華は大いに喜び、すぐさま雷煥を豊城県令に任じた。雷煥は県に着任すると、獄舎の下を4丈余り掘り進め、1つの石函を見つけた。それは非常に光り輝いており、中には2本の剣があり、1つは龍泉、1つは太阿と銘が刻んであった。その日の夜、斗牛の間から昇る気は見えなくなった。雷煥は南昌の西山に出向き、北巌の下にある土で剣を拭うと、その輝きはさらに艶やかになった。また大きな盆に水をはって剣をその上に置くと、目も眩むばかりの輝きを放った。雷煥は使者を派遣して1本の剣と土を張華へ送り、もう1本は手元に置いて自ら着用した。ある者は雷煥へ「2本手に入れておきながら、1本だけを送っているが、張公を欺けると思うのか」と言った。雷換は「本朝はまさに乱れんとしており、張公はその禍いを受けようとしている。この剣は徐君の墓樹に繋けられるべきものである(春秋時代呉の政治家季札の逸話。季札は魯へ使者と赴いた時、徐国を通過した。徐の君主は季札の剣を欲しがったが、使者としての使命があったので断った。職務を果たして帰還する際にまた徐国を通ったので剣を譲り渡そうとしたが、徐の君主は既に死んでいた。その為、季札は徐の君主の墓に剣を取り付けた)。それに霊異の物というのは結局は化けて去るものであり、長く人間のために使われる事は無いであろう」と言った。張華は剣を得ると、とても重宝して常に座の側に置いた。張華は雷煥に手紙を送り「剣文を詳しく見ると、これは干将であるようだ。それならば対となるはずの莫邪はどうしてやってこないのか。とはいえ、これらは天生の神物であるから、最後にはひとつとなるであろう」と言い、さらに南昌の土は華陰の赤土には及ばないと考えて華陰の土1斤を雷煥に送った。雷煥は改めてその土で剣を拭くと、さらに輝きは増した。後に張華が誅殺されると、剣の所在は分からなくなった。雷煥もまたこの世を去ると、子の雷華は州の従事となった。ある時、雷華は剣を持って出かけて延平津を通りかかると、剣は突然腰から躍り出て水の中に落ちてしまった。雷華は人に水にもぐらせて剣を取ろうとしたが、剣は見つからず、ただ数丈の長さの2匹の龍が互いに巻きつき合っており、水に潜った者は驚嘆して引き返した。ほどなくして、光彩が水を照らして波がわき立ち、とうとう剣は失われてしまった。雷華は嘆息して「先君(雷煥)の化去の言、張公(張華)の終合の論、これがその事であろうか」と言うのみであった。
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怪異譚
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353年9月、張重華は西河相張祚の殺害を目論んだが、その夜になると厩馬40匹が悉く後尾を失っていた。10月、雲が無いにも関わらず雷鳴が轟き、みな東南へ逃れた。また、太陽は炎の如く真っ赤となり、さらには三足鳥も現れ、その姿形ははっきりとしていた。5日後にはすべて収まったという。張重華が病に倒れたのは、その後間もなくであった。
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怪異譚
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張祚が王位を称したその夜、天に車蓋のような光が現れ、雷霆のような音を発し、城邑を震動させた。翌日、大風により木が引き抜かれ、黒気が起こって日中にも関わらず闇に包まれた。これ以降も、このような災異がしばしば発生したという。 張瓘討伐の兵を派遣した折、玄武殿において神が降臨し、自らを玄冥と称して人と語り合った。張祚はその夜に彼に祈りを捧げると、神は『福利を与えよう』と告げたので、張祚はこれを深く信じた。
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怪異譚
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357年5月、東苑にある丘で突然地面が陥没し、沢となった。また、数丈に渡って火事が発生した。6月、大風が起こり、雷鳴が轟き、辺りが暗闇に包まれた。宮中では水害が発生し、深さ4尺にも及んだ。執法御史杜逸は張瓘へ「こられの変はみなただ事ではありません。お祓いをすべきです」と勧めた。 359年6月、大雨が降り、雷鳴が轟き、辺りが暗闇に包まれた。平地では水害により水深6尺に達し、宮中でも4尺に達した。
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怪異譚
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361年1月の乙丑の日、辰の時間に危宿(別称を危月燕という)に位置していた月が太白(金星)に覆い被さるという出来事があった。占い師はこれを見て「天下は靡散せん」と予言したという。 365年2月の丙子の日、参宿に位置していた月が熒惑(火星)に覆い被さるという出来事があった。占い師はこれを見て「参魏(三国時代の魏。参とは三の代用字)の地は燕にありて、まさに災いに見舞われるであろう」と予言した。これは前燕の滅亡を予期したものだという。 368年12月、鄴において神が舞い降り、自らを相汝と称した。声を発して人と接して親交を深めると、数日してから去って行った。
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怪異譚
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後漢末期、敦煌郡出身の博士侯瑾は弟子へ「そのうち、城(姑臧城)の西にある泉は枯渇し、その上に二つの楼台が立ち、城の東門よりそれらを望み見る事が出来るであろう。覇者はそこより出現する」と予言した。魏の嘉平年間(249年 - 254年)に至ると、郡の長官は学舎を建てる為、泉底の上に二つの楼台を築いたが、果たして城の東門より望み見る事が出来た。そして予言の通り張軌が到来し、河西の地を支配するに至ったのだという。 310年11月、張掖郡の臨松山で『金馬』という字が彫られた石が見つかった。その字を鮮明に読もうと研磨を行ったところ、『張』という字が新たに確認された。さらにその後に文章が続いている事も分かり、そこには『初祚天下、西方安萬年(初めて天下の主となり、西方を万年に渡って安んじるであろう)』と刻まれていたという。さらに同じ時期、姑臧でも黒石が発見され、そこには白点が二十八宿を形成していたという。これらの逸話はいずれも、張氏の長期に渡る涼州支配を暗示するものとされる。 312年、令狐瀏らが反乱を起こした金城郡太守胡勗討伐に向かう途上、黄河の中流を渡っていると白魚が船に入り込んできた。これを見た令狐瀏は「魚の類を虜としたか。これは必ずや(胡勗が)甲を解き、我らに帰するという事であろう」と告げた。果たして胡勗は降伏を請い、張軌はこれを許した。
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怪異譚
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遠方より道術を使える比丘尼が桓温の下へ訪ねてきた。比丘尼が別室で湯浴みをしていると、桓温はそれを密かに覗いた。すると突然、比丘尼は裸のまま刀で腹を裂き、次に両足を切り落としてしまった。その後、浴室から出てくると、桓温が吉凶を尋ねた。比丘尼は「公が天子になると、こういう事になりますぞ」と答えたという。 元帝・明帝の治世の時、郭璞という人物が予言を行い「君主に世継ぎがいるとしても、兄弟が継ぐことになるでしょう」と述べた。成帝には子がいたが、弟の司馬岳に後事を託し、予言の通りとなった。また郭璞は「李という姓の者、児は征戦を専らにするでしょう。例えるなら車軸であるが、一面が脱落しているでしょう」と述べた。『児』は『子』の事であり、『李』から『子』を除くと『木』となり、『車』から『丨(軸)』を抜くと『亘』となる。これらを合わせる『桓』の字が出来る。また郭璞は「爾来、爾来、河内大県」とも言っていた。爾来とは、これよりを元始とするの意味であり、桓温の字は元子である。故に河内大県というのは桓温の事を指す。成帝・康帝が崩御した頃から桓氏の勢力が拡大したのは、この予言の通りであるという。郭璞は「子が薨る(死ぬ)のを頼みとするのは、国運が延びるからである。子が殞ちる(死ぬ)のを痛むるのは、皇運が暮れるからである」とも述べた。二子とは、元子(桓温)、道子(司馬道子)の事である。桓温は簒奪を試みるも成就する前に死したため、頼とした。会稽王司馬道子は晋国の混乱を招いたが、その死は晋の衰亡によるものだったので、痛としたのであろうと記載されている。 桓温は373年に入朝した後、高平陵を拝した。その時、桓温の挙動がおかしい事に周囲の者が気づいた。桓温は車に戻ると、従者へ向けて先帝が霊として見えた事を告げた。帝が何を話したかを述べなかったので、皆どういう事か分からなかった。ただ、拝する時に桓温は何度も「この温、敢えてそのような事は致しません」と言うのを聞いた。また桓温は側近に殷涓の容姿を問うと、小柄で肥満であったと答えた。すると、 桓温はまた帝の側に殷涓がいたと呟いた(殷涓はかつて桓温によって庶人に降とされた殷浩の子であり、大いに気尚を有していたが、遂に桓温を詣でる事は無かった。武陵王司馬晞と交友していたため、桓温は彼を疑って誅殺したが、顔や体型は知らなかった)。この後すぐに、桓温は殷涓に祟られたかのように病を発したという。
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唐の太宗李世民は遼東の地方へ出征した折、定州を通過した。その時、道端に一人の鬼が黄衣を纏って高い塚に立っており、その神采は特異なものであった。太宗は使者を通じて語りかけたところ、その鬼は「我らはかつて君らに勝ったが、君らは今我らに勝とうとしている。栄華とは各々の代で異なるものであり、どうしてこのように苦しめ追い詰めるのか」と答え、言い終えるや姿は見えなくなった。そこは慕容垂の墓所であったという。
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ある時、張駿は夢を見た。夢の中で、1人の髪と眉が真っ白な男が自らを子瑜と名乗り「地上のことは汝が行い、地下のことは我が行おう」と告げた。張駿は目が覚めるとこの事を問うた。すると、侯子瑜という人物がいる事が分かったが、既に死んでいた。その為、その曾孫である侯亮を取り立て、祁連県令に任じた。 死の直前、張駿は夢の中で出遊したが、場所はどこか分からなかった。見ると一匹の玄亀がおり、張駿へ向かって「9日の後にまさに嘉問があるだろう」と告げた。果たして、張駿は9日後に亡くなったという。
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怪異譚
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まだ前涼が存続していた頃、前涼の天水郡太守史稷は急死したが、50日後に蘇って「涼州の謙光殿の中に、白瓜が生い茂るのが見える」と告げたという。後に前秦軍の攻勢により前涼は滅亡したが、梁熙の小字は白瓜だった。 苻堅の末年、当陽門が震動するといった出来事が起きた。西平郡主簿郭黁は天文に明るく、占候に長けていたので、梁熙は彼へ「これは何の祥なのか」と問うた。すると郭黁は「四夷に関する事です。外国の2王が主上へ来朝しますが、1人は国へ帰り、1人はこの城(姑臧)で死ぬでしょう」と答えた。1年余りすると、車師前部王弥窴・鄯善王休密馱が苻堅の下へ来朝したが、西へ帰還する途上に休密馱は姑臧で亡くなったという。
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怪異譚
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真冬のある日、劉殷の曾祖母である王氏は菫を食べたいと望んだ、その事を話さなかった。その後、彼女は10日間あまり食事を満足に取らなくなったので、劉殷は奇妙に思って尋ねると、王氏は本心を打ち明けた。当時9歳であった劉殷は、湖沼に向かうと菫を探し回ったが、この季節菫は成長を終えて既に枯れており見つからなかった。劉殷はひどく嘆いて「私は罪深く、父母の喪に遭う罰を受けた。また、曾祖母が健在にもかかわらず、10日間も孝行をしなかった。私は所詮人の子であり、各地を探し回ったが何も得ることが出来ていない。天地の神が私に同情することを願う」と言った。それから半日あまり泣きわめいていたが、突然「止めなさい。泣くのを止めなさい」と人の声らしきものが聞こえた。劉殷は泣くのを止めてあたりを窺うと、すぐに菫が生えているのが見えた。劉殷はこれを1斛余り摘んでから帰宅し、王氏へ振舞った。その菫は奇妙であり、食べても食べても減る事は無く、菫が生える季節になると無くなったという。 劉殷はかつて夜に夢を見た。ある人が彼に「西の籬(竹や木などで出来た低く目のあらい垣)には、穀物があるぞ」と言った。目が覚めた後、劉殷は堀りに行き、15時間かけて大量の穀物を得た。上面には銘文が書かれており、「100石の穀物7年分を、孝子である劉殷に与えましょう」とあった。その時より穀物を食べ始め、7年かけてようやく食べ終わった。当時の人は、神霊と感応できる彼の資質を褒めたたえた。そして、先を争って劉殷へ米や穀物・絹糸を捧げた。劉殷はそれを全て受け取り、礼を述べなかった。ただ、富貴を得た後に必ずこれに報いなくてはならないな、と呟いたという。 曾祖母の王氏が亡くなると、その棺は劉殷の家中に置かれたが、ある時西隣の家で失火が起こった。風の勢いが凄まじかったため、火は強まり劉殷の家をも飲み込まんとしていた。劉殷と張氏は棺の前で跪き、泣き叫んだ。すると、火は彼らの家を飛び超え、東隣の家へ移った。そのため、劉殷たちは無傷であった。この火事の直後、2羽の白い鳩が家の庭にある樹に巣を築いた。そのため、周囲の人からは彼らの名誉がさらに顕れて見えたという。
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怪異譚
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ある時、石斌は急病により心肺停止となった。3日後に殯を行おうとした際、石勒は嘆息して「朕が聞くところによると、虢の太子が死んだ時、扁鵲が蘇生させたという。今、大和尚は国中の神人であり、これに告げれば福をもたらしてくれるかも知れぬ」と述べ、人を派遣して仏図澄にこの事を告げさせた。佛図澄は楊枝を取って灑水で濡らし、呪を施してから石斌の手をとって「起つべし」と告げた。すると石斌は蘇生し、しばらくすると健康に戻ったという。
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