怪異譚とは? わかりやすく解説

怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「怪異譚」の解説

339年大規模な旱魃発生し、さらに天には白虹見られた。石虎下書して「朕は在位すること6年、上は乾象を和する事が出来ず、下は黎元を救う事が出来なかった。故に星虹の変が生じてしまった。そこで百僚各々封事上奏するように。また、西山の禁を解き葦・魚塩を歳供から除外し厳しくする事のないように。公侯卿牧は山沢占有して百姓の利を奪う事の無い様に」と述べたまた下書して以前豊国澠池各々建物建築し刑徒配分して移し時務を救わんとしてきた。それがいつしか慣例の法となってしまい、怨声が起こるに至った。今より罪人流民については全て申奏し、たやすく配する事のないように。京獄の囚人の中で殺人犯した者以外は、一律にみな赦免し釈放する」と述べた。すると、この日に降り始めたという。 342年青州より上言があり『済南平陵城の北にある石の虎が、一夜にして忽ち城東南の善石溝に移り、さらに千匹余りがこれに付き従い、その跡で路が形成された』との事であった。これに石虎喜んで「石の虎とは朕の事である。平陵城北から東南移ったというのは、朕が江南を平蕩する事を天が望んでという事だ。天命違ってはならぬ。諸州に命じ翌年には全ての兵を集結させるようにせよ。朕自らが六軍率い、成路の祥を現実としてみせよう」と大い喜んだ群臣はみなこれを祝賀し、『皇德頌』を献上した者は107人に及んだ。だが、これを機に妖異現象頻発し始めた泰山では石が燃え8日後に消滅した東海では大石が自ら立ち、傍らには血が流れていた。鄴の西山石間から血が流れ出し長さ10余り広さ2尺余り及んだ。太武殿には古の賢人描かれていたが、その全て胡人変貌し10日余りすると尽く頭が縮んで中に没もれてしまった。石虎はこの現象大い不快感覚え仏図澄は何かを悟って涙を流した344年白虹が太社より現れ鳳陽門を経て東南空へ連なり10余り消滅した。これを聞いた石虎下書して「思うに、古えの明王天下を理する時、政においては均平を首とし、化においては仁恵を本とした。故に人和を允協する事が出来神物光明させる事が出来た。朕は眇薄でありながら万邦君臨し朝夕勉め怠る事無く、古烈を遵う事を思ってきた。そこで書を下して、徭賦を免除して黎元休息させ、俯して百姓安んじ、仰しては三光日・月・星)を稟する事を願うものである中年以来変異次第顕著となり、天文錯乱し、時気が応じていない。これは下において人が怨んでおり、その譴を皇天感じているからであろう。朕は不明といえども公卿もまた翼を支える事が出来ていない。昔、相は政を修めた事で洪災が一回りして鎮まり、鄭卿は道を厲いだ事で気が自ずと消えたという。いずれも股肱の良が群変を康らかとしたのである。群公卿士の各々才徳ありながら国家尽くさず、成敗について黙り込んで何もしていないのに、どうして台輔百司望めようか!各々封事上奏し、極言して隠す事の無いように」と述べ鳳陽門を閉鎖して元日にのみ開くようにした。また、霊昌津に2つ祭場立て、天と五郊を祠った。 344年石虎は霊昌津に掛けよう考え採石させて基礎築こうとした。しかし、石の大きさが揃わず、また流れが急であったため流されてしまった。功夫500万余りを動員して完成出来なかった。その為、石虎使者派遣して祭を行わせ、璧を河に沈めさせた。俄かに渚上に流れ着くと、地震起こって水波が立ち上り、その波によって殿観は全て倒壊してしまい、下敷きになって死んだ者が100余りに及んだ石虎激怒し工匠斬り捨てると共に建造取りやめた。 347年石虎邯鄲城西石子の上にある趙簡子の墓を暴くよう命じた掘り始めると、初めに深さ1丈余りの炭が出てきて、次いで厚さ1尺の木板現われ積み上げる厚さ8尺となったさらには水脈達し、そのは非常に清冷であった。その為、絞車を造り、牛の皮嚢を用いて汲み出した。しかし、1カ月以上経過して尽きなかったので、それ以上掘る事が出来ず作業中止された。そこで今度秦始皇の塚を暴いて取り出すと、器を鋳造した347年揚州から黄の雛五羽が送られてきた。その頸長は1丈あり、その声は十里余り先でも聞こえるといわれ、玄武池にこれらを放した。郡国からは相次いで蒼麟16頭、白鹿7頭が届けられた。そこで石虎は司虞張曷命じて調教させ、をつけた駕に繋ぐと、殿庭に列する際に乗った348年8月東南では黄黒雲起こり大きさは数畝ほどであった。それはしばらくすると3つ分かたれ形状は匹布の如しであった東西へ天を経て、色は黒から青へと移り、酉時には日を貫き日没後には7道へと分かれた。さらに、数十離れる毎に、間に魚鱗の様な白雲起こり、子時になると消滅した石韜暗殺されるのはその日の夜の事であった349年熒惑火星)が積尸(パイ)を通過し、さらに昴・月を通過しそのまま北の河鼓(アルタイル)を通過した。すると石虎病状急速に悪化したという。

※この「怪異譚」の解説は、「石虎」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「石虎」の記事については、「石虎」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 07:27 UTC 版)

張華」の記事における「怪異譚」の解説

張華の伝には怪異譚の類が数多く載せられている。『晋書』によると、張華博識であった事からこの類の話は唐代においても多く存在しており、全て採録する事は出来なかったという。 ある時、張華封地である壮武郡で変化してとなった事があり、識者ですら詳しい事が分からなかった。またある時、張華役宅官舎には幾度も妖怪出現したという。また張華昼寝をした時、突然屋根壊れ落ち夢を見て目覚めた後にその事を気味悪がった。禍が降りかかったのはその夜であったという。 295年10月武庫火事起こった際、張華は1本の剣が屋根突き破って飛んで行くのを見たが、その行先誰にも分らなかったという。 司馬衷時代、ある人が毛の長さが三丈もある発見し張華見せた。彼はこれを見ると「これは海毛というものだ。これが現れる時、天下乱れるといわれている」と述べ慘然憂い悲しみにより、物思いに沈む事)としたという。 ある時、陸機張華の家へ赴いて魚介類に塩を加えて漬け込み自然発酵させた食品)を贈ったその時彼の家は大勢賓客がおり、張華は器を開けると「これは龍の肉である」と言い放った誰もこれを信じなかったが、張華は「試しに苦酒でこれを濯いでみよ。きっと何かが起こるであろうと言った実際にやってみた所、しばらくして五色の光が起こった陸機は家に帰り作った者にこの事を尋ねると、彼は「園中のの下で一匹白魚捕まえました格好変わっていたので、作ってみたところ、とても美味でしたので献上した次第です」と言うであった洛陽武庫は非常に厳重に封鎖されていたが、ある時にその中から忽然と雉の鳴き声聞こえた事があった。この報告聞いた張華は「これはきっとが雉に化けているのであろうと言い武庫開いてみたところ予想通り雉の側には脱殻があったという。 ある時、呉郡の臨平にて岸が崩れ一つ石鼓出てきたが、叩いても音が出なかった。帝は不思議に思って張華尋ねると、張華は「蜀の地にある桐材の形に刻み、それで打てばでしょうと言った。そこでその通りにしてみたところ果たしてその音は数里先までも聞こえたという。 呉が滅び以前の事、斗宿牛宿の間にはいつも紫色雲気立ち上っており、これを見た道術師はみな呉の勢力強盛であると判断し、討つのは時期尚早であると述べていたが、張華だけはこれに反論していた。呉が平定された後、紫気はいよいよはっきりと見えるようになった張華豫章出身雷煥という人物天文明るいという話を聞き雷煥を家に招待して泊まらせた。そして、人払いをしてから「共に天文占い将来吉凶知ろうではないか」と誘いに登って空を仰ぎ観た。雷煥は「私は長い観察続けておりますが、斗牛の間にいささか気があるのが見て取れます」と言った張華は「それは何の兆しか」と問うと、雷煥は「宝剣精気が立ち上り、天へ向かっております」と答えた張華は「君の言葉もっともだ。私が若い頃人相見に看てもらうと、60歳過ぎてから地位三公登り宝剣手に入れて腰に帯びであろう予言をした。この予言とよく似てはいるではないかと言い、さらに「それはどこの郡から来ているか」と問うと、雷煥は「豫章豊城からです」と答えた張華は「そうであれば汝には(豊城の)宰となってもらい、密かに力を合わせてこれを捜し出そうと思うのだが、どうだろうか」と持ち掛けると、雷煥承諾した張華大い喜びすぐさま雷煥豊城県令任じた雷煥は県に着任すると、獄舎の下を4丈余掘り進め1つの石函を見つけた。それは非常に光り輝いており、中には2本の剣があり、1つ龍泉1つは太阿と銘が刻んであった。その日の夜、斗牛の間から昇る気は見えなくなった雷煥南昌西山出向き、北巌の下にある土で剣を拭うと、その輝きはさらに艶やかになった。また大きな盆にをはって剣をその上に置くと、目も眩むばかりの輝き放った雷煥使者派遣して1本の剣と土を張華送り、もう1本は手元置いて自ら着用した。ある者は雷煥へ「2本手入れておきながら、1本だけを送っているが、張公を欺けると思うのか」と言った換は「本朝はまさに乱れんとしており、張公はその禍いを受けようとしている。この剣は徐君の墓に繋けられるべきものである春秋時代呉の政治季札逸話季札使者赴いた時、徐国を通過した。徐の君主季札の剣を欲しがったが、使者としての使命があったので断った職務果たし帰還する際にまた徐国を通ったので剣を譲り渡そうとしたが、徐の君主は既に死んでいた。その為、季札は徐の君主の墓に剣を取り付けた)。それに霊異の物というのは結局は化けて去るものであり、長く人間のために使われる事は無いであろうと言った張華は剣を得ると、とても重宝して常に座の側に置いた張華雷煥手紙送り「剣文を詳しく見ると、これは干将あるようだそれならば対となるはずの莫邪はどうしてやってこないのか。とはいえ、これらは天生神物であるから最後にはひとつとなるであろうと言い、さらに南昌の土は華陰赤土には及ばない考えて華陰の土1斤を雷煥送った雷煥改めてその土で剣を拭くと、さらに輝き増した。後に張華誅殺されると、剣の所在は分からなくなった雷煥もまたこの世を去ると、子の雷華は州の従事となった。ある時、雷華は剣を持って出かけて延平津を通りかかると、剣は突然腰から躍り出て水の中落ちてしまった。雷華は人ににもぐらせて剣を取ろうとしたが、剣は見つからず、ただ数丈の長さ2匹の龍が互いに巻きつき合っており、潜った者は驚嘆して引き返したほどなくして光彩照らして波がわき立ち、とうとう剣は失われてしまった。雷華嘆息して先君雷煥)の化去の言、張公(張華)の終合の論、これがその事であろうか」と言うのみであった

※この「怪異譚」の解説は、「張華」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「張華」の記事については、「張華」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 08:00 UTC 版)

張重華」の記事における「怪異譚」の解説

353年9月張重華西河張祚殺害目論んだが、その夜になると厩馬40匹が悉く後尾失っていた。10月が無いにも関わらず雷鳴轟き、みな東南逃れたまた、太陽は炎の如く真っ赤となり、さらには三足現れ、その姿形ははっきりとしていた。5日後にはすべて収まったという。張重華が病に倒れたのは、その後間もなくであった

※この「怪異譚」の解説は、「張重華」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「張重華」の記事については、「張重華」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 08:16 UTC 版)

張祚」の記事における「怪異譚」の解説

張祚王位称したその夜、天に車蓋のような光が現れ雷霆のような音を発し城邑震動させた。翌日大風により木が引き抜かれ、黒気が起こって日中にも関わらず闇に包まれた。これ以降も、このような災異がしばしば発生したという。 張瓘討伐の兵を派遣した折、玄武殿において神が降臨し、自らを玄冥称して人と語り合った張祚その夜彼に祈り捧げると、神は『福利与えよう』と告げたので、張祚はこれを深く信じた

※この「怪異譚」の解説は、「張祚」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「張祚」の記事については、「張祚」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 08:56 UTC 版)

張玄靚」の記事における「怪異譚」の解説

357年5月、東苑にある丘で突然地面陥没し、沢となったまた、数丈に渡って火事発生した6月大風起こり雷鳴轟き辺り暗闇包まれた。宮中では水害発生し深さ4尺にも及んだ。執法御史逸は張瓘へ「こられの変はみなただ事ではありません。お祓いをすべきです」と勧めた359年6月大雨降り雷鳴轟き辺り暗闇包まれた。平地では水害により水深6尺に達し宮中でも4尺に達した

※この「怪異譚」の解説は、「張玄靚」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「張玄靚」の記事については、「張玄靚」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 00:24 UTC 版)

慕容暐」の記事における「怪異譚」の解説

361年1月乙丑の日、辰の時間危宿別称を危月燕という)に位置していた月が太白金星)に覆い被さるという出来事があった。占い師はこれを見て天下は靡散せん」と予言したという。 365年2月丙子の日参宿位置していた月が熒惑火星)に覆い被さるという出来事があった。占い師はこれを見て「参魏(三国時代の魏。参とは三の代用字)の地は燕にありて、まさに災い見舞われるであろう」と予言した。これは前燕滅亡予期したものだという。 368年12月、鄴において神が舞い降り、自らを相汝と称した。声を発して人と接して親交深めると、数日してから去って行った

※この「怪異譚」の解説は、「慕容暐」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「慕容暐」の記事については、「慕容暐」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:10 UTC 版)

張軌」の記事における「怪異譚」の解説

後漢末期、敦煌郡出身博士侯瑾弟子へ「そのうち、城(姑臧城)の西にある泉は枯渇しその上に二つ楼台が立ち、城の東門よりそれらを望み見る事が出来であろう覇者はそこより出現する」と予言した。魏の嘉平年間249年 - 254年)に至ると、郡の長官学舎建てる為、泉底の上二つ楼台築いたが、果たして城の東門より望み見る事が出来た。そして予言通り張軌到来し河西の地を支配する至ったのだという。 310年11月張掖郡の臨松山で『金馬』という字が彫られた石が見つかった。その字を鮮明に読もう研磨行ったところ、『張』という字が新たに確認された。さらにその後文章続いている事も分かり、そこには『初祚天下西方萬年初め天下の主となり、西方万年渡って安んじるであろう)』と刻まれていたという。さらに同じ時期姑臧でも黒石発見され、そこには白点二十八宿形成していたという。これらの逸話はいずれも、張氏の長期に渡る涼州支配暗示するものとされる312年令狐瀏らが反乱起こした金城郡太守胡勗討伐に向かう途上黄河中流渡っていると白魚が船に入り込んできた。これを見た令狐瀏は「の類をとしたか。これは必ずや(胡勗が)甲を解き我ら帰するという事であろう」と告げた果たして胡勗は降伏請い張軌はこれを許した

※この「怪異譚」の解説は、「張軌」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「張軌」の記事については、「張軌」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)

桓温」の記事における「怪異譚」の解説

遠方より道術を使える比丘尼桓温の下へ訪ねてきた。比丘尼別室湯浴みをしていると、桓温はそれを密かに覗いた。すると突然、比丘尼は裸のまま刀で腹を裂き次に両足切り落としてしまった。その後浴室から出てくると、桓温吉凶尋ねた比丘尼は「公が天子になると、こういう事になりますぞ」と答えたという。 元帝明帝治世の時、郭璞という人物予言行い君主世継ぎがいるとしても、兄弟が継ぐことになるでしょう」と述べた成帝には子がいたが、弟の司馬岳後事託し予言通りとなった。また郭璞は「という姓の者、児は征戦専らにするでしょう例えるなら車軸であるが、一面脱落しているでしょう」と述べた。『児』は『子』の事であり、『』から『子』を除くと『木』となり、『車』から『丨(軸)』を抜くと『亘』となる。これらを合わせる『桓』の字が出来る。また郭璞は「爾来爾来河内大県」とも言っていた。爾来とは、これよりを元始とするの意味であり、桓温の字は元子である。故に河内大県というのは桓温の事を指す。成帝康帝崩御した頃から桓氏の勢力拡大したのは、この予言通りであるという。郭璞は「子がる(死ぬ)のを頼みとするのは、国運延びるからである。子が殞ちる(死ぬ)のを痛むるのは、皇運暮れるからである」とも述べた二子とは、元子桓温)、道子司馬道子)の事である。桓温簒奪試みるも成就する前に死したため、頼とした。会稽王司馬道子は晋国の混乱招いたが、その死は晋の衰亡よるものだったので、痛としたのであろう記載されている。 桓温373年入朝した後、高平陵を拝したその時桓温挙動がおかしい事に周囲の者が気づいた。桓温は車に戻ると、従者向けて先帝が霊として見えた事を告げた。帝が何を話したかを述べなかったので、皆どういう事か分からなかった。ただ、拝する時に桓温何度も「この温、敢えてそのような事は致しません」と言うのを聞いた。また桓温側近に殷涓の容姿を問うと、小柄肥満であった答えた。すると、 桓温はまた帝の側に殷涓がいたと呟いた(殷涓はかつて桓温によって庶人に降とされた殷浩の子であり、大いに気尚を有していたが、遂に桓温詣でる事は無かった武陵王司馬晞と交友していたため、桓温は彼を疑って誅殺したが、顔や体型知らなかった)。この後すぐに、桓温は殷涓に祟られかのように病を発したという。

※この「怪異譚」の解説は、「桓温」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「桓温」の記事については、「桓温」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 19:29 UTC 版)

慕容垂」の記事における「怪異譚」の解説

唐の太宗李世民遼東地方出征した折、定州通過したその時道端一人の鬼が黄衣を纏って高い塚に立っており、その神采特異なものであった太宗使者通じて語りかけたところ、その鬼は「我らはかつて君らに勝ったが、君らは今我ら勝とうとしている。栄華とは各々の代で異なるものであり、どうしてこのように苦しめ追い詰めるのか」と答え言い終えるや姿は見えなくなった。そこは慕容垂墓所であったという。

※この「怪異譚」の解説は、「慕容垂」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「慕容垂」の記事については、「慕容垂」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)

張駿」の記事における「怪異譚」の解説

ある時、張駿夢を見た夢の中で1人の髪と眉が真っ白な男が自らを子瑜と名乗り地上のことは汝が行い地下のことは我が行おう」と告げた張駿目が覚めるとこの事を問うた。すると、侯子瑜という人物がいる事が分かったが、既に死んでいた。その為、その曾孫である侯亮を取り立て祁連県令に任じた死の直前張駿夢の中で出遊したが、場所はどこか分からなかった。見ると一匹の玄亀がおり、張駿向かって9日の後にまさに嘉問があるだろう」と告げた果たして、張駿9日後に亡くなったという。

※この「怪異譚」の解説は、「張駿」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「張駿」の記事については、「張駿」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 16:36 UTC 版)

梁熙」の記事における「怪異譚」の解説

まだ前涼存続していた頃、前涼天水郡太守史稷は急死したが、50日後に蘇って涼州の謙光殿の中に白瓜生い茂るのが見える」と告げたという。後に前秦軍の攻勢により前涼滅亡したが、梁熙小字白瓜だった。 苻堅末年当陽門が震動するといった出来事起きた西平郡主簿郭黁は天文明るく、占候に長けていたので、梁熙は彼へ「これは何の祥なのか」と問うた。すると郭黁は「四夷に関する事です。外国の2王が主上来朝しますが、1人は国へ帰り1人はこの城(姑臧)で死ぬでしょう」と答えた1年余りすると、車師前部王弥窴・鄯善休密馱が苻堅の下へ来朝したが、西へ帰還する途上休密馱は姑臧亡くなったという。

※この「怪異譚」の解説は、「梁熙」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「梁熙」の記事については、「梁熙」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:39 UTC 版)

劉殷」の記事における「怪異譚」の解説

真冬ある日劉殷曾祖母である王氏食べたい望んだその事を話さなかった。その後、彼女は10日間あまり食事を満足に取らなくなったので、劉殷奇妙に思って尋ねると、王氏本心打ち明けた当時9歳であった劉殷は、湖沼に向かうと探し回ったが、この季節成長終えて既に枯れており見つからなかった。劉殷はひどく嘆いて「私は罪深く父母の喪に遭う罰を受けたまた、曾祖母健在にもかかわらず10日間も孝行をしなかった。私は所詮人の子であり、各地探し回ったが何も得ることが出来ていない。天地の神が私に同情することを願う」と言った。それから半日あまり泣きわめいていたが、突然「止めなさい。泣くのを止めなさい」と人の声らしきもの聞こえた劉殷泣くのを止めてあたりを窺うと、すぐに生えているのが見えた劉殷はこれを1斛余り摘んでから帰宅し王氏振舞った。そのは奇妙であり、食べて食べても減る事は無く生え季節になると無くなったという。 劉殷はかつて夜に夢を見た。ある人が彼に「西の籬(竹や木などで出来た低く目のあらい垣)には、穀物があるぞ」と言った。目が覚めた後、劉殷は堀りに行き15時間かけて大量穀物得た上面には銘文書かれており、「100石の穀物7年分を、孝子である劉殷与えましょう」とあった。その時より穀物食べ始め7年かけてようやく食べ終わった当時の人は、神霊感応できる彼の資質褒めたたえた。そして、先を争って劉殷へ米や穀物絹糸捧げた劉殷はそれを全て受け取り、礼を述べなかった。ただ、富貴得た後に必ずこれに報いなくてはならないな、と呟いたという。 曾祖母王氏亡くなると、その劉殷家中置かれたが、ある時西隣の家失火起こった。風の勢いが凄まじかったため、火は強まり劉殷の家をも飲み込まんとしていた。劉殷と張氏はの前で跪き泣き叫んだ。すると、火は彼らの家を飛び超え、東隣の家移った。そのため、劉殷たちは無傷であった。この火事直後、2羽の白いが家の庭にあるに巣を築いた。そのため、周囲の人からは彼らの名誉がさらに顕れて見えたという。

※この「怪異譚」の解説は、「劉殷」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「劉殷」の記事については、「劉殷」の概要を参照ください。


怪異譚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/03 15:44 UTC 版)

石斌」の記事における「怪異譚」の解説

ある時、石斌急病により心肺停止となった3日後に殯を行おうとした際、石勒嘆息して「朕が聞くところによると、虢の太子死んだ時、扁鵲蘇生させたという。今、大和尚国中神人であり、これに告げれば福をもたらしてくれるかも知れぬ」と述べ、人を派遣して仏図澄にこの事を告げさせた。佛図澄楊枝取って灑水濡らし、呪を施してから石斌の手をとって「起つべし」と告げた。すると石斌蘇生し、しばらくすると健康に戻ったという。

※この「怪異譚」の解説は、「石斌」の解説の一部です。
「怪異譚」を含む「石斌」の記事については、「石斌」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「怪異譚」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「怪異譚」の関連用語

怪異譚のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



怪異譚のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石虎 (改訂履歴)、張華 (改訂履歴)、張重華 (改訂履歴)、張祚 (改訂履歴)、張玄靚 (改訂履歴)、慕容暐 (改訂履歴)、張軌 (改訂履歴)、桓温 (改訂履歴)、慕容垂 (改訂履歴)、張駿 (改訂履歴)、梁熙 (改訂履歴)、劉殷 (改訂履歴)、石斌 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS