毛宗崗
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毛 宗崗(もう そうこう、簡体字: 毛宗岗、生没年不詳)、
校訂までの経緯

毛宗崗の父・毛綸(号:声山)は文名高い人物だったが、任官せず貧しい暮らしを送っていた。中年になった頃、両目を失明した。そんな毛綸の楽しみは『琵琶記』、および『三国志演義』(以下、『演義』)を批評することであった[2]。毛綸は羅貫中の『通俗三国志』の完成度を司馬遷の『史記』にも劣らないと高く評価していた。しかし後世に登場したさまざまな版本の改悪内容に不満を覚え、ついに自らが校訂することを決意する[3]。
息子の毛宗崗も文名高い人物でありながら、父同様に任官せず、父が『演義』に評を施す作業に従って校訂を施し、これを完成させた。清の康煕初年(1662年)頃とみられる[2][4]。完成した本を読んだ毛綸の友人が称賛し、出版を勧めたので刊行へと動き出したが、このとき、本を奪おうとした弟子の裏切りに遭ったため、刊行が遅れたという[4]。
毛宗崗本『演義』は、このように毛父子の共同作業によるものであったが、世間の評価では毛宗崗ひとりの功績とされることが多い[2]。
毛宗崗本『三国志演義』

内容
略称は『毛本』。清の康煕刊本(版木を彫って紙に印刷した本)が現存している。全60巻・120回からなる。冒頭には毛綸と同郷・同時代の文芸評論家・金聖嘆の名を借りて作成した序文『金聖嘆序』、どのような方針で編纂したのかを説明する『凡例』[5]、小説の手引き『読三国志法』がある[2]。回目の整理、文章の手直し、論・賛の削除、エピソードの追加、評点(文章の重要な部分を強調するために記す点)などを行っている[1]。
手法
毛宗崗は金聖嘆を師としてその批評手法に倣い、改訂・補強・削除を施している。しかし金聖嘆とはちがい、毛宗崗は歴史小説を特別重視し、歴史小説の史実への依拠を強調しつつも、必要な虚構(フィクション)には反対せず、また、『演義』の人物像を創造した経験を総括して見解を示す、物語の文学性や構造について詳細・精緻に分析するなど、毛宗崗独特の成果も収めている[2]。
思想
毛宗崗本『演義』には、「劉を尊び、曹を貶む」(劉備が漢王朝の末裔であることから、彼が興した国・蜀漢を正統と見做し、曹操らを臣下として位置づける)の傾向が強められていることからも、封建時代の正統観と、儒家の民本思想(民(たみ)を本(もと)とする考え)、民族観念(漢民族としてのアイデンティティ)が含まれていることが指摘されている[2]。
評価

『毛本』はそれまでの版本と比べ、文学的質が高かったことから、以降、もっとも広く流布した版本となった。現在知られる『演義』の内容は、この『毛本』に依るものである[2]。
また、毛宗崗は中国古典小説の理論形成にも大きく貢献し、中国文学批評史においても、現在も重要な位置を占めている[2]。
なお、『毛本』の登場により従来、その他の版本は淘汰されたものと思われていたが、1734年に刊行された『鼎鐫按鑑演義古本全像三国英雄志伝』、1802年に刊行された『新刻按鑑演義三国志伝』ほか、『毛本』登場以降も旧来の版本が刊行されていたことが判明している[6]。
脚注
出典
参考文献
- 沈伯俊、譚良嘯『三国志演義大辞典(日本語版)』潮出版社、1996年。ISBN 9784267012389。
- 中川諭(後藤裕也、高橋康浩、小林瑞恵)『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年。 ISBN 9784585290780。
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