毛宗崗
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毛 宗崗(もう そうこう、簡体字: 毛宗岗、1633年8月 - ?[1])、
人物

史料の発見
毛宗崗は、父の毛綸(もうりん:号・声山)とともに『三国志演義』を校訂したことで知られるが、彼ら父子の生涯についてはほとんど知られていなかった。しかし、『婁関蔣氏本支録』[3]、『婁関蔣氏本支録右編』[4]といった婁関蔣氏一族の史料や、同一族出身の清代初期の人物・蔣廷鋐の未発表詩集『半関詩集』[5]に毛父子に関する多数の記述が発見された[6]。
蔣廷鋐(1663年 - 1729年)は、蘇州の呉県出身の太学生で、婁関蔣氏の第七世にあたり、『半関詩集』は自身の訂正稿本で、全33巻からなる。康熙20年(1681年)から雍正4年(1726年)にかけての蔣氏の詩・文章・詞が収録され、その中には毛宗崗の未発表作品、その生涯、交友関係について多くの記述が含まれている[6]。
宗崗の生涯
毛宗崗の未発表文章によると、戊戌(康熙57年:1718年)に「86歳」とあり、逆算すると生年は崇禎6年(1633年)であると推測できる。また、蔣廷鋐の詩「寿西河夫子八十」の注釈から、8月生まれと判明した。「天谷老人」「半衲」「孑庵」「孑叟」といった号を用いている[6]。
順治8年(1651年)に、父・毛綸が蔣燦に招かれ、孫の蔣之逵の師となったことで蔣氏一族との交流が始まり[3][4]、康熙20年(1681年)、毛宗崗が49歳の頃には、蔣廷鋐、蔣涵、蔣深を自身の弟子として迎えている[4][6]。
毛綸と同郷・同時代の文芸評論家・金聖嘆と交流があったこと、蔣銘(蔣廷鋐の兄)が『古文匯鈔』を編纂・選定した際[3][4]、毛宗崗が「毛子嶼始」の名で批評・選定に携わった可能性があること[6]、家屋が焼失し、所蔵していた書物がすべて焼けてしまったこと[3][6]、友人に詩を贈ったことや、弟が先に亡くなり、深い悲しみに打ちひしがれたことなどが記される[6]。
康熙57年(1718年)、86歳になった自身の孤独な老後を詠んだ詞『沁園春』「妻や子はほとんどおらず、子孫も絶えている」といった内容から、寂しい晩年を物語る。康熙60年(1721年)、蔣廷鋐の詩に、毛宗崗を偲ぶような記述があることから、1718年から1721年の間の、いずれかの年に亡くなったとみられる[6]。
毛本版『三国志演義』
校訂の経緯

毛宗崗の父・毛綸(号:声山)は文名高い人物だったが、任官せず貧しい暮らしを送っていた。中年になった頃、両目を失明した。そんな毛綸の楽しみは、『琵琶記』および『三国志演義』(以下、『演義』)を批評することであった[7][8][9]。毛綸は羅貫中の『通俗三国志』(『演義』の原作)の完成度を司馬遷の『史記』にも劣らないと高く評価していた。しかし後世に登場したさまざまな版本の改悪内容に不満を覚え、ついに自らが校訂することを決意する[10][11]。
息子の毛宗崗も文名高い人物でありながら、父同様に任官せず、父が『演義』に評を施す作業に従い、これを完成させた(原名:『第一才子書三国志』)。清の康煕初年(1662年)頃とみられる[12][9][注 1]。完成した本を読んだ毛綸の友人が称賛し、出版を勧めたので刊行へと動き出したが、この時、自分の手柄にしようと、本を奪おうとした弟子の裏切りに遭ったため、刊行が遅れたという[15][14]。
毛宗崗本『演義』は、このように毛父子の共同作業によるものであったが、世間の評価では毛宗崗ひとりの功績とされることが多い[9]。
手法と思想

略称は『毛本』。清の康煕刊本(版木を彫って紙に印刷した本)が現存している。全60巻・120回からなる[2]。
冒頭には金聖嘆の名を借りて作成した序文『金聖嘆序』、どのような方針で編纂したのかを説明する『凡例』[16]、小説の手引き『読三国志法』がある[9]。『李卓吾先生批評三国志』を底本に[17]、回目の整理、文章の手直し、論・賛の削除、エピソードの追加、評点(文章の重要な部分を強調するために記す点)などを行っている[2]。
毛宗崗は金聖嘆を師としてその批評手法に倣い、改訂・補強・削除を施しているが、金聖嘆との違いは、毛宗崗は歴史小説を特別重視し、歴史小説の史実への依拠を強調しつつも、しかし必要な虚構(フィクション)には反対せず、また、『演義』の人物像を創造した経験を総括して見解を示し、物語の文学性や構造について詳細・精緻に分析する、といった独自の成果も収めている[9]。
毛宗崗本『演義』には、「劉を尊び、曹を貶む」(劉備が漢王朝の末裔であることから、彼が興した国・蜀漢を正統と見做し、曹操らを臣下として位置づける)の傾向が強められていることからも、封建時代の正統観と、儒家の民本思想(民(たみ)を本(もと)とする考え)、民族観念(漢民族としてのアイデンティティ)が含まれていることが指摘されている[9]。また、その思想には毛綸が幼い頃に父(毛宗崗の祖父)から受けた家庭教育の影響も考えられる。毛綸は父から、当時低俗とされた小説・伝奇の中で『琵琶記』だけは特別に読むことを許され、その理由は『琵琶記』が「孝・義・貞・淑」といった道徳や教訓を説く書物で、他の伝奇とは一線を画していたからだという。毛綸は『琵琶記』を生涯愛読し、毛宗崗にも受け継がれたと見られる[7][18](→次節参照)。
『第七才子書琵琶記』

『毛本』の完成後、毛父子が次に取り掛かったのは、『琵琶記』の評点本である[3][4]。『琵琶記』とは、元末明初の戯曲(劇の台本)であり、南戯の最高傑作とされる。ある夫婦の別離と再会までの苦難が描かれる[19]。
毛綸の父(名は不詳)は、普段から「孝・義・貞・淑」といった儒教の徳目を重視しており、それらの教えが書かれた『琵琶記』を、息子である毛綸に読むことを薦めた。毛綸はその優れた文章に感動し、彼の愛読書となった。「いつか『琵琶記』に評点を付けて出版し、人々と分かち合いたい」と密かに願っていたが、家が貧しく、余暇もなく、その夢は叶わなかった。毛綸が失明した後、彼は息子の毛宗崗に『琵琶記』を朗読させ、それを聴くことを楽しむうちに、かつての出版の夢を再び思い起こすと、『琵琶記』に関する評語を毛綸が口述し、毛宗崗がそれを筆録した[3][7][18]。
毛宗崗は父の評点にいくつかの補足を施した「参論」を書き加え、全書の「総論」の付録として収めた。こうして『第七才子書琵琶記』は完成した[3][4]。同書の巻一には「康熙丙午」(1666年)とあり[13]、序文によれば、当時、毛綸はまだ存命であった[8]。
毛父子の劇作に対する思想や観点は非常に似通っており、毛宗崗研究においても極めて重要な資料のひとつである[20]。
評価

『毛本』はそれまでの版本と比べ、文学的質が高かったことから、以降、もっとも読者に受け入れられ、広く流布した版本となった。現在知られる『演義』の内容は、この『毛本』に依るものである[9]。
また、毛宗崗は中国古典小説の理論形成にも大きく貢献し、中国文学批評史においても、現在も重要な位置を占めている[9][1]。
なお、『毛本』の登場により従来、その他の版本は淘汰されたものと思われていたが、1734年に刊行された『鼎鐫按鑑演義古本全像三国英雄志伝』、1802年刊行『新刻按鑑演義三国志伝』ほか、『毛本』登場以降も旧来の版本が刊行されていたことが判明している[21]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 夏 2019, p. 42.
- ^ a b c d 沈・譚 1996, pp. 283–284.
- ^ a b c d e f g 陳翔華 著「毛宗崗的生平与〈三国志演義〉毛評本的金聖嘆序問題」、周兆新 編『三国演義叢考』北京大学出版社、1995年、6-12頁。ISBN 7301027206 。「(初出)『文献』中国国家図書館、1989年、第3期。」
- ^ a b c d e f 陸林『金聖嘆史実研究』人民文学出版社、2015年、574-584頁。 ISBN 9787020107704 。「(初出)『文献』中国国家図書館、2014年、第4期。」
- ^ “半関詩集三十三巻 十二冊”. 歷史文物陳列館. 中央研究院歴史語言研究所. 2024年7月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 夏 2019, pp. 43–48.
- ^ a b c 『第七才子書(琵琶記)』巻一「総論 三十五~三十七」、ウィキメディア・コモンズ。「予之得見《琵琶記》雖自幼時,然爾時不過記其一句兩句吟詠而已。…(中略)…功莫大焉。」
- ^ a b 王 2006, p. 2.
- ^ a b c d e f g h 沈・譚 1996, p. 283.
- ^ 『第七才子書(琵琶記)』巻一「総論 三十四~三十五」、ウィキメディア・コモンズ。「羅貫中先生作通俗三國志其一百二十巻…(中略)…共贊其成。」
- ^ 中川 2014, p. 32.
- ^ 『第七才子書(琵琶記)』巻一「総論 三十四~三十五」、ウィキメディア・コモンズ。「羅貫中先生作通俗三國志其一百二十巻…(中略)…共贊其成。」
- ^ a b 『第七才子書(琵琶記)』巻一「総論 七十一」、ウィキメディア・コモンズ。「康煕丙午」。
- ^ a b 中川 2014, pp. 32–33.
- ^ 『第七才子書(琵琶記)』巻一「総論 三十五」、ウィキメディア・コモンズ。「書既成,有白門快有見面稱善…(中略)…殊為可恨。」
- ^ 中川 2014, pp. 30–31.
- ^ 中川 2014, pp. 31–32.
- ^ a b 王 2006, pp. 3–5.
- ^ 小学館国語辞典編集部「琵琶記」『精選版 日本国語大辞典』小学館 。コトバンクより2025年8月19日閲覧。
- ^ 王 2006, pp. 44–47.
- ^ 中川 2014, p. 33.
参考文献
文献
- 『第七才子書(琵琶記)巻一』 - ウィキメディア・コモンズ。
書籍
- 沈伯俊、譚良嘯『三国志演義大辞典(日本語版)』潮出版社、1996年。 ISBN 9784267012389。
- 中川諭(後藤裕也、高橋康浩、小林瑞恵)『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年。 ISBN 9784585290780。
論文(中国語)
- 王璦玲「「為孝子、義夫、貞婦、淑女別開生面」—論毛声山父子《琵琶記》評点之倫理意識与批評視域」『中国文哲研究集刊』第28号、中央研究院中国文哲研究所、2006年、1-49頁、2025年8月18日閲覧。
- 夏志穎「毛宗崗年表新証」『古籍整理研究学刊』第1号、東北師範大学古籍整理研究所、2019年、42-48頁。
関連事項
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