毛宗崗本の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 03:04 UTC 版)
「三国志演義の成立史」の記事における「毛宗崗本の成立」の解説
毛宗崗(字:序始、号:孑庵)は長洲(現在の蘇州)の人で生没年は不詳。父の毛綸(声山)は『琵琶記』の批評を行った人物である。同郷の師に『水滸伝』に大胆な改変を加えたことで知られる金聖歎がいたともいう。父の毛声山は李卓吾本を元に各書を取捨選択し、『演義』の改訂に取り組んでいた。毛宗崗はそれを引き継いで、記事や文章の誤りを正し、自らの評価を挿入して毛宗崗本を完成させた。成立時期は康煕5年(1666年)以降であるという。首巻には金聖歎に仮託した序文と「凡例」「読三国志法」および目録・図録を収める。「凡例」は毛宗崗が底本とした李卓吾評本からどの部分をどういった方針で修正したかを説明したもの、「読三国志法」は毛宗崗自身による『演義』の解説である。 毛宗崗は校訂にあたって、なるべく史実を重視し、それまでの刊本に採録されていた花関索説話などの荒唐無稽な記述や、周静軒の詩を削除する方針をとった。たとえば毛宗崗が削った逸話に「漢寿亭侯」故事がある。関羽が曹操に降った際、曹操から寿亭侯の位を与えられたが、関羽が不満と聞くと、曹操がその上に「漢」の一字を追加して「漢寿亭侯」とした。関羽は「曹公は私の心を分かっておられる」と喜んだという逸話である。関羽の漢(=劉備)に対する忠節を示す話であるが、実際には関羽は「漢寿」という土地(現在の湖南省常徳市漢寿県)に封じられたものであり、漢と寿を切り離す話には無理がある。しかし元明代にはむしろ「漢・寿亭侯」の解釈の方が一般的であった。史実を重んじる毛宗崗は、この話を採用せず削除してしまうが、それ以前の刊本には収録されていたため、李卓吾本を輸入・翻訳した日本では、この説話が残り、広く知られている。 逆に史実ではないのに毛宗崗が挿入した逸話に「秉燭達旦」がある。曹操が関羽の心を乱すため、劉備の二人の夫人と同室に泊まらせたが、関羽は燭を取って戸外に立ち、朝まで一睡もせずに警備したため、曹操はますます関羽に感心したという話で、明刊本の本文中には見られない(周曰校本では註釈で触れている)。博識で有名な学者胡応麟は、『荘岳委譚』の中でこの話は正史にも『綱目』にも見られない虚構の話だと断じたが、毛宗崗は「通鑑断論」に基づいてこの話を入れたという。通鑑断論とは元代の学者潘栄の『通鑑総論』のことで、明代の『綱目』刊本にはこの通鑑総論を冒頭に附録しているものが多かった。毛宗崗が校訂にあたり『綱目』に依拠していたことが推測される。また、赤壁の戦い時に徐庶が離陣する際の名目であった西涼の不穏は、李卓吾本では馬超が原因であったが、毛宗崗は馬騰に置き換えている。 毛宗崗本は既刊刊本の中で、いわば決定版と見なされ、清朝一代をかけて徐々に他の刊本を駆逐し、古い刊本が国内で廃棄・消尽され、日本をはじめ外国に多く伝存するという状況を導くことになる。清末には、ほぼ『演義』といえば毛宗崗本のことを指すという状態となり、現在に至る。清代に特定の刊本が突出し、他の刊本が整理・淘汰されるのは『水滸伝』(金聖歎本)や『西遊記』(西遊真詮)でも似た傾向が見られる。
※この「毛宗崗本の成立」の解説は、「三国志演義の成立史」の解説の一部です。
「毛宗崗本の成立」を含む「三国志演義の成立史」の記事については、「三国志演義の成立史」の概要を参照ください。
- 毛宗崗本の成立のページへのリンク