関索
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関 索(かん さく、繁体字: 關索; 簡体字: 关索)は、『花関索伝』『三国志演義』等に登場する架空の人物。関羽と胡金定[1]の子。民間伝承では字は維之[2]。
- ^ 新編全相説唱足花関索出身伝 前集
- ^ 『聖帝世系考証(中国語)』 「聖三子諱索,字維之,己亥之難奔川請兵報讎,建興二年従武侯征孟獲為先鋒。」
- ^ 『欽定古今圖書集成』澂江府。『貴州通志』巻7 思南府,、大定府、南籠府。
- ^ それぞれ、関羽関索廟、関索が休んだ場所、鮑家莊があり西征の開始場所。『欽定古今圖書集成』黃州府
- ^ 新人物往来社(編)、1996年(平成8年)、「「関羽の息子、花関索伝」」、濱田寛(編)『決定版「三国志」考証事典』別冊歴史読本』、新人物往来社〈別冊歴史読本―考証事典シリーズ〉 ISBN 978-4404024091 ASIN 4404024096 pp. 86-96
- ^ 上田望、2003年(平成15年)、「雲南関索戯とその周辺 The Mask Theatre of Guan Suo and its Context (PDF) 」 、『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』(6)、金沢大学文学部中国語学・中国文学講座、ISSN 1342-3975、NAID 110004713781 pp. 69-97“雲南関索戯とその周辺”. 上田望. 2011年12月14日閲覧。
- ^ 廣田律子、1998年(平成10年)、「資料紹介・中国民間の仮面 (二)花関索面」、『麒麟』(07)、神奈川大学、ISSN 0918-6964、NAID 120002399503 pp. 41-43
関索
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「三国志 (横山光輝の漫画)」の記事における「関索」の解説
関羽の息子で関興の弟。荊州が奪われた際に重傷を負うが一命を取り留め、南蛮遠征より参戦。木鹿王を討ち取る功績をあげた。
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関索
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関羽の三男。関羽と関平亡き後関興と共に蜀を守る。青ルートでは兄である関興の事を呼び捨てにしているシーンがある。
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関索
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関索は上述のごとく、架空の人物であり、版本によって登場の仕方が異なる。諸本を最終的に校訂した毛宗崗本では、関羽の第三子とし、諸葛亮の南蛮征伐中に登場後ほとんど活躍のないまま、物語から消える。 『演義』よりやや遅れた16世紀前半に成立した『水滸伝』には「病関索」のあだ名を持つ楊雄という人物が登場する。この人物の初出は南宋時代である。南宋末の画家龔聖与(1222年? - ?)は後の『水滸伝』の原型ともいうべき宋江ら36人の肖像画と賛を作成した。現在肖像画は散佚したが、賛のみ同時代の周密(1232年 - 1298年)の著わした『癸辛雑識続集』に引用されている。そこでは「賽関索 王雄」の名が見られる(病や賽は本家よりやや劣るという意である。楊(yáng)と王(wáng)は平水韻では下平声七陽に属する字で発音が近い)。この記述から、南宋末(13世紀半ば)の時点ですでに関索の名が知れ渡っていたことが分かる。 同じく南宋から元代にかけて横行した盗賊の中にも、逆に盗賊を取り締まる軍人の側にも朱関索、賽関索などのあだ名が見られる。また首都臨安の繁栄を描いた『武林旧事』には、都市の盛り場での角力でも小関索・厳関索などの四股名が見られるなど、「関索」が広く認知され、あだ名に用いられる英傑として定着していたことがうかがえる。また伝承の中で関索が活躍したと思われる四川省・雲南省・貴州省などの地域には、関索嶺や関索廟、関索城などの地名が残っている。 これらの関索伝説について小川環樹は、中国天文学の星座に「貫索九星」(かんむり座の一部)があり、それが神様として崇拝された可能性を指摘する。宋代に三国物語(特に孔明の南征や関羽の神格化など)がこの地方に広まるにつれ、関羽への連想から貫索が関索に変化して(「貫」(guàn)と「関」(guān)はほぼ同音)、南征説話と結びつけられ、「関羽の子が死して神となった」という伝説に昇華したという。そのほか、宋代に架空の武将関索の名が広まり、武勇に優れる「関」姓の将軍ということから関羽と関連づけられ、息子ということにされたとする説もある。 『平話』で関索は孔明の南征中、不危城に籠もる呂凱を倒すため突然登場し、しかもその一度しか出てこない。また元代の雑劇のうち、三国時代を舞台とした作品群の中にも、関索の名は全く登場していない。すなわち、関索にまつわる伝説は、演義につながる説話とは独立して発展したものであり、その集大成となったのが『花関索伝』であった。『花関索伝』には、上記の呂凱と戦う場面など『平話』と共通する設定がいくつかある。呂凱は正史・『演義』ともに、蜀の官僚で南蛮と対峙する人物であり、ここで敵(南蛮側)として登場するのは本来おかしい。しかし『平話』『花関索伝』に共通する設定となっていることから、『花関索伝』の成立は『平話』とほぼ同時期もしくはやや遅れた頃と見られる。これら関索伝説は原「三国演義」の完成段階で採用されることはなかったが、余象斗や朱鼎臣などの福建の書肆が、二十巻本系の刊本を出す際に一部挿入した。しかし毛宗崗によって、史実から逸脱した関索の逸話は削減され、毛宗崗本ではほとんど名前が出てくるのみの登場となった。
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