謎の武将・関索の伝説
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小説『三国志演義』(以下『演義』と略称)の完成型といえる毛宗崗本(全120回)では、諸葛亮(孔明)による南蛮征伐中の第87回に関索という人物が突然登場する。この人物は関羽の第三子であるというが、荊州で関羽が敗死した際に大怪我を負い、その後鮑家で療養していたという自らの生い立ちを語った後、たいした活躍もなく、いつの間にか物語から消えてしまう。しかし関羽の子に関索という人物がいたことは正史『三国志』をはじめ、いずれの史書にも出ておらず、彼は架空の人物である。関羽の子としては別に関平(正史では実子であるが『演義』では養子とする)や関興などがすでに存在し、それぞれ活躍している。すなわち関索は、関平・関興とは別にわざわざ創作された人物であるが、それにしては活躍場面が少なく、何の為に創作されたのか分からない謎の武将であった。『演義』の原典の一つと目されている元代の『三国志平話』(以下『平話』と略称)でも、やはり孔明南征の中で、不危城に籠もる呂凱を倒すため突然登場し、その一度しか出てこない。また後世の通俗小説に導入された逸話を多く提供した元代の戯曲(雑劇・元曲ともいう)のうち、三国時代を舞台とした作品群の中にも、関索の名は全く登場していない。 ところが『演義』の中でも、毛宗崗本と別系統のテキストでは全く別の「関索」が登場する。万暦20年(1592年)頃に福建で出版された『三国志伝』系と呼ばれる20巻本のテキストでは、毛宗崗本の第53回にあたる段で花関索という若者が荊州の関羽の下を訪ね、生い立ちを語る。花関索は関羽の子だが、生後しばらく母と二人で暮らしていた。7歳の時元宵節で迷子となって索員外(員外は金持ちの旦那の意)に拾われ、9歳からは花岳先生に武芸を習う。恩を受けた3人の名を取って「花関索」と名乗り、のち鮑家荘という所で女傑の鮑三娘と試合して勝ってこれを妻とし、蘆塘塞でさらに王桃・王悦姉妹にも同様に勝って妻とした。このたび母親の胡氏と3人の妻を伴って父に会いに来たという。その後、この花関索は孔明の入蜀に従軍して活躍し、後に雲南で病死したと関興が語る形で物語から退場している(なおこの時関興は「兄が病死した」と語っているため、この系統での関索は関羽の二男となっている)。このような毛色の異なる関索の逸話も長く来歴不明であり、どのような伝承に基づくのか分からなくなっていた。 しかし通俗小説『水滸伝』(北宋末期を舞台とする)には「病関索」のあだ名を持つ楊雄という人物が登場・活躍しており、宋代・元代においては盗賊の中にも、盗賊を取り締まる軍人の側にも朱関索、賽関索などの名が見られ、また都市の盛り場での角力でも小関索・厳関索などの名が見えるなど、この人物が広く認知され、あだ名に用いられる英傑として定着していたことが伺える。また物語の上で関索が活躍したと思われる四川省・雲南省・貴州省などの地域には関索嶺や関索廟、関索城などの地名が現在でも残っていることから、『演義』が成立した15世紀までは、かなり有名人だったことが分かる。小川環樹は中国天文学の星座に「貫索九星」(かんむり座の一部)があり、それが神様として崇拝された可能性に触れ、三国物語(特に孔明の南征や関羽の神格化など)が広まるにつれ、関羽への連想から関索に変化(貫と関はほぼ同音)して南征と結びつけられ、関羽の子が死して神となったとの伝説に昇華したのではないかと推測している。 しかし関索にまつわる説話にどのようなものがあったのかは、明代以降とくに『演義』成立後は散佚してしまい、その全貌がつかめない時代が続いていた。
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