謎の最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:54 UTC 版)
永禄6年(1563年)7月10日、隆元は多治比猿掛城に帰還した。また、隆元は嫡男の幸鶴丸(後の輝元)を吉田郡山城から呼び寄よせ、対面した。だが、これが父子の最後の対面となった。 7月12日、隆元は多治比猿掛城を出発し、安芸の佐々部に到着した。式敷の蓮華寺に留まり、ここで尼子攻めに参加するための準備を行った。 8月3日晩、隆元は毛利氏傘下の備後国人である和智誠春の宿所に招かれ、饗応を受けたが、宿に戻った後に急病となり、翌8月4日朝に急死した。享年41。 死因は食傷とも毒殺ともいわれる。この時隆元に近侍した赤川元保が永禄10年(1567年)3月に、和智誠春が永禄12年(1569年)1月に元就の意向によって誅殺されている。元就は、隆元の死因に釈然としないものがあったのではないかと指摘されている。 毛利家の家督は隆元の嫡男の幸鶴丸が継いだが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握ることとなった。
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