毛利隆元とは? わかりやすく解説

毛利隆元

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 14:32 UTC 版)

毛利 隆元(もうり たかもと)は、戦国時代武将安芸守護大名戦国大名毛利氏の第13代当主


注釈

  1. ^ 毛利家の系図では大江氏の遠祖とされる天穂日命を初代当主として数えている[9]
  2. ^ 隆元は元就に対し「父上が後見して下さるならば、自分でも何とか毛利の領国を保てましょう。また弟(元春と隆景)達の助力も得たい」と述べ、元就の翻意を促した(『毛利家文書』第656号・第657号・第658号「弘治3年?毛利隆元自筆覚書」[10])。
  3. ^ 当初、元就からは従軍・渡海を拒絶されたが、隆元は「自分一人生き残ったところで、御家の弓矢が成り立ちましょうか」と嘆願して同行を許可されたという逸話がある[12]
  4. ^ この際、隆元は義輝から錦の直垂を下賜されたが、隆元は遠慮して元就に譲った。
  5. ^ 隆元は特に絵画をこよなく愛して雪舟風を良くし、紙本墨画毛利隆元自画像、紙本淡彩白鷺図、紙本淡彩枇杷に鷹図、紙本墨画柳に燕図(いずれも毛利博物館蔵)など、隆元自筆とされる作品が遺されている。
  6. ^ この中に収録されている長文『毛利隆元謹述胸念』より。隆元が生前深く帰依していた禅僧竺雲恵心へ送った文書で、隆元が自らの悲痛な心境を吐露した、遺書めいた内容となっている。
  7. ^ 隆元の後を継いだ輝元が、奉行の桂元忠に対して「玖珂・熊毛・河内・岩国段銭さらへ之儀、涯分内儀究申付候、存外をまきれ候事多御座候、常栄遠行之後より、二三千貫余毎年不調申候、これにて惣之つこう可被成御推量候、不及沙汰儀共候(常栄=隆元の卒去後から、周防四郡の段銭2 ~ 3千貫が徴収できていない)」(『毛利家文書』、第767号「元亀元年 毛利輝元自筆書状」[22])と書き送っている。
  8. ^ 隆元は元就の直臣である桂元忠・児玉就忠に「父の代からの老臣達〔口羽通良福原貞俊など〕は、それぞれの家のことばかりを考慮している」と激しく不満をぶつけている。また「古参の臣達には器量が無く、新たに拡がった領国〔大内氏の旧領〕は任せられない」(『毛利家文書』、第420号「弘治4年8月毛利元就書状写」[23])と、かなり辛辣に述べる場面も散見される。
  9. ^ 永禄7年(1564年)4月11日付けの書状において、隆景は『尊書致拝見候、常栄御書置之敷通被差上候、誠不及是非次第候、加程迄被存當候哉、忽別寄特之儀共数多面に相見え候、不及沙汰迄候〔兄の隆元の書置きを幾つか拝見しましたが、これほどまでに思い詰めて深く考えておられたとは気づきませんでした。書状の文面から、兄の生前の思いは痛いほど伝わりました。今更思い浮かべる言葉もありません〕』(『毛利家文書』、第763号「年未詳4月11日 小早川隆景書状」[21])とある。
  10. ^ 天文23年12月24日付けの書状(桂元澄宛)においても、隆元は「晴賢の要請に従って父の元就が下向すれば、晴賢は父を拘束するかもしれない。そうなったら毛利家の滅亡である」という考えを述べている。
  11. ^ 吉見正頼は山口へ討ち入った際、「義長判形」と呼ばれる木印を確保しており、これは毛利博物館に現存している。
  12. ^ 永禄5(1562年)7月27日付けの都賀陣所発給文書において、隆元は石見において義隆の名が入った象牙製判子を入手したことを書き記している。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 時山弥八編 1916, p. 81.
  2. ^ a b c d e f 時山弥八編 1916, p. 82.
  3. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 77.
  4. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 78.
  5. ^ a b c 時山弥八編 1916, p. 79.
  6. ^ a b 時山弥八編 1916, p. 80.
  7. ^ 光成準治 2016, p. 11.
  8. ^ 『毛利家文書283号』
  9. ^ サントリー美術館 2012, p. 162.
  10. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 381–387.
  11. ^ a b 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, p. 114.
  12. ^ 国重政恒(江戸時代前期藩士。生没年:寛永15年(1638年) - 宝永8年/正徳元年(1711年))の著作『温故私記』[要文献特定詳細情報]より。
  13. ^ 岸田裕之 2014, p. 239.
  14. ^ a b c d e f 河合 1984, p. 208.
  15. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 333, 第313号「永禄3年2月21日付足利義輝御判御教書」.
  16. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 333, 第314号「永禄3年比定12月8日付足利義輝御内書」.
  17. ^ a b 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 116–117.
  18. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, p. 388.
  19. ^ a b c 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 518–520.
  20. ^ 目で見る 毛利家あれこれ 〜毛利博物館収蔵資料と歴史ばなし〜 第421回(毛利博物館館長代理 柴原直樹) - 地域情報新聞ほっぷ(2018年(平成30年)11月23日号)
  21. ^ a b 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, p. 521.
  22. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 524–527.
  23. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1922, pp. 127–131.
  24. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 327, 第306号「天文18年11月19日内藤興盛書状」.
  25. ^ 柴原直樹 「コラム2 毛利隆元・内藤興盛と縹糸胸紅白威胴丸」安芸高田市(2014)p23[要文献特定詳細情報]
  26. ^ 吉見正頼覚書[要文献特定詳細情報]より。
  27. ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所編 1920, p. 329.
  28. ^ 毛利元就99の謎 222~225頁
  29. ^ 毛利隆元逝去の地 安芸高田市観光協会「安芸高田市観光ナビ」 (日本語)
  30. ^ 大河ドラマ 毛利元就 完全版 第壱集 DVD-BOX - NHKスクエア(NHKエンタープライズ
  31. ^ 出演作品 - 上川隆也公式サイト


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