青景隆著とは? わかりやすく解説

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青景隆著(あおかげ たかあきら) ????~1556

越後守 右京進
 周防・大内氏臣。当主義隆の下、奉行人務めるが、義隆が相良武任重用した為、これを陶隆房(晴賢)に讒言し、隆房を謀反走らせる一因作ったといわれる。隆房謀反時はこれに従い行動を共にした。安芸毛利氏との戦いにて戦死

青景隆著

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 15:35 UTC 版)

 
青景隆著
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 弘治2年(1556年
官位 右京進[1]従五位下[2]越後守[1]
主君 大内義興義隆義長
氏族 藤原北家秀郷流青景氏[3]
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青景 隆著(あおかげ たかあきら)は、戦国時代武将周防国戦国大名大内氏の家臣。

出自

青景氏は、藤原秀郷を祖とし、初めは長門国豊浦郡に移り住んだ[3]元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いの後、藤原秀通に長門国美祢郡青景村[注釈 1]と上桑原[注釈 2]の地が与えられて地頭職に補任された[注釈 3]。これ以後、代々青景村に住して「青景」の名字を名乗った[4]

青景氏の本流は後に「門多」と改姓するが、門多氏の系譜に青景隆著の名が見られないことから、隆著は青景氏の庶流であったと考えられている[1]

生涯

大内氏に属する長門国国人・青景氏に生まれ、大内義興義隆義長の三代に仕え、奉行人を勤める[5]

天文10年(1541年9月21日、龍崎隆輔や陶隆満と共に吉原秀親に対して知行安堵と佐東銀山城の城番を命じる連署状を送る[6]

天文11年(1542年)から始まる大内義隆の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)に従軍した[7]

天文17年(1548年3月16日従五位下に叙せられる[2]

天文18年(1549年)4月から5月にかけて、毛利元就吉川元春小早川隆景らと共に周防国山口を訪問すると、陶隆房(後の陶晴賢)と隆著らは元就らを歓待し深く誼を通じた[8]

同年9月4日神辺合戦が終結すると、同年11月3日に大内義隆の命を受けて神辺合戦で大内氏が獲得した備後村尾要害(神辺城)の城督として守りに就いた[2][9][10][11]。なお、隆著が村尾要害(神辺城)の城督を務めている間に厳島神社棚守房顕と交わした文書が相当数残されている[1]

大内義隆が同じく奉行人の相良武任を重用する等して対立を深めると、陶隆房(後の陶晴賢)や内藤興盛らと結託し[12]、天文20年(1551年)に隆房が大内義隆に対して謀反を起こした大寧寺の変では、隆著も陶方に加担している[1]

歴名土代』によると、隆著は弘治2年(1556年)に毛利氏との戦い(防長経略)において戦死したと記されている[1][2]。ただし、戦死した際の具体的な年月日や場所については記されていない[2]

なお、隆著の死についての異説として、『陰徳太平記』では大内義隆の怨霊により狂死したとされ、『吉田物語』では陶晴賢が杉重矩を殺害するより前に病死したとしているが、いずれも荒唐無稽で、信の置けるものではないと考えられている[1]

脚注

注釈

  1. ^ 現在の山口県美祢市秋芳町青景
  2. ^ 現在の山口県美祢市大嶺町奥分桑原。
  3. ^ 藤原秀通の父である豊東郡司の藤原秀盛とその弟の藤原秀清は平家に味方したため、所領没収の上、処刑されることとなった[4]。秀盛の旧領は秀通に与えられることとなったが、秀通は旧領の拝領を辞退して父・秀盛の助命を嘆願したため、秀通の孝心に感じた源頼朝は秀盛を助命し、秀通には改めて屋敷所として長門国美祢郡の青景村と上桑原の地と地頭職が与えられた[4]

出典

  1. ^ a b c d e f g 財前司一 1962, p. 14.
  2. ^ a b c d e 大内氏實録 1885, p. 296.
  3. ^ a b 財前司一 1962, p. 11.
  4. ^ a b c 財前司一 1962, p. 12.
  5. ^ 戦国人名事典 1987, pp. 9–10.
  6. ^ 『閥閲録』巻130「吉原市兵衛」第9号、天文10年(1541年)9月21日付、吉原彌七(秀親)宛て右衛門尉(龍崎隆輔)・右京進(青景隆著)・安房守(陶隆満)連署状。
  7. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 116.
  8. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 142.
  9. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 145.
  10. ^ 『閥閲録』巻104「湯浅権兵衛」第116号、天文18年(1549年)比定11月3日付、湯浅五郎次郎(元宗)宛て大内義隆書状。
  11. ^ 『閥閲録』巻104「湯浅権兵衛」第117号、天文18年(1549年)比定11月3日付、湯浅五郎次郎(元宗)宛て(龍崎)隆輔、(小原)隆言、(陶)隆満連署状。
  12. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 164.

参考文献

関連項目

  1. ^ 青景城(おかげじょう) - ニッポン城めぐり(解説内容の出典は美祢市文化財保護課)


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