小幡氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/09 01:27 UTC 版)
- ^ 『寛政重修諸家譜』など小幡氏の伝える系譜では、赤松氏からの養子とする。『上野国小幡氏の研究』はこの養子説を否定している。
- ^ a b c d e f g 『上野国小幡氏の研究』
- ^ 通説では下仁田鷲鼻城とする。ただし小幡氏の記述が無いため、これは武蔵国にあったと考える説もある(今井寛之編『上野国小幡氏研究ノートⅣ』、吉田東伍『大日本地名辞書』)。
- ^ 黒田基樹「山内上杉氏領国下の上野小幡氏」(初出:『武田氏研究』第44号(武田氏研究会、2011年)/所収:黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1)
- ^ 黒田基樹「天文期の山内上杉氏と武田氏」(初出:柴辻俊六 編『戦国大名武田氏の役と家臣』(岩田書院、20121) ISBN 978-4-87294-713-7/所収:黒田『戦国期 山内上杉氏の研究』(岩田書院、2013年)ISBN 978-4-87294-786-1)
- ^ 小幡次郎信之の関与と養子関係の推察は『上野国小幡氏研究ノートⅡ』(今井寛之編、2003年)による。また次郎信之は小幡憲重の末弟であるとする。
- ^ 『関八州古戦録』など軍記物に記載。ただし長野氏の関与は記載されず、景純の讒言により憲重らは追われたとする。通説とみてよいとされるが史料上でこれを裏付けるものは未発見。
- ^ 『上野国小幡氏の研究』では、小田原征伐で国峰城を守り前田軍に降った彦三郎を信貞養子で嫡男だったとする。一方で『戦国大名と外様国衆』は古文書から信貞養子は右衛門尉信定(七郎兵衛)で、既に家督を譲られていたとする。『上野国小幡氏研究ノート』(今井寛之、2002年)では彦三郎説をとっている。
- ^ 『上野国小幡氏の研究』所収の「御家中諸士略系譜」の一部(原典は市立米沢図書館蔵)による。ただし「播磨守宗吉」となっている。
- ^ 『幡氏旧領弁録』記事内、松代小幡氏の小幡長右衛門の言による(『上野国小幡氏の研究』)。
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』
- ^ 『寛政重修諸家譜』
- ^ 『吉井町誌』には、虎盛を小幡憲重が弟とする系図を載せるが、虎盛嫡男を盛次としているなど他系図と異同が激しい。『上野国小幡氏の研究』ではこの系譜を否定する。
- ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』、『尊卑分脈』
- ^ 平井聖〔ほか〕編集 『日本城郭大系』第4巻、新人物往来社、1979年。
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