大掾氏
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大掾氏(だいじょうし)は、中世常陸国に勢力を持った一族で、軍事貴族。坂東平氏(桓武平氏)国香流。常陸平氏の嫡流であり、多くの庶家を輩出した。通字は「幹」(もと)。使用の家紋は「対い蝶(むかいちょう)」、「三つ巴(みつどもえ)」。
注釈
- ^ 中根正人は、大掾氏当主と思われる発給文書より、『茨城県史 中世編』などの先行研究を肯定して佐竹義人の三男の名前を「大掾憲国」[9]としたが、後に当該文書の発給者(=「平憲国」)を大掾氏の重臣の誤りであったとして、この説を撤回している[10]。
- ^ 現存する大掾氏の系図では「高幹」となっているが、『真壁文書』に所収された真壁家幹宛の書状の署名は「忠幹」である。なお、軍記物の『鹿島治乱記』でも「忠幹」と記されている[10]。
- ^ なお、中根はこの時期の大掾氏が佐竹氏の従属下にあったとする説の根拠とされる文書・史料は、いずれも発給時の状況などから佐竹氏が大掾氏を従属下に置いたと解釈するのは困難であると指摘している[14]。
- ^ なお、大掾清幹が石田三成の重臣・嶋清興(一般には「島左近」の名前で知られる)に対して人質差し出しの延期を求めていることが嶋が佐竹氏家臣の小貫頼久に対して出した書状[15]から判明しており、小田原征伐直前に嶋が豊臣政権の実務担当者として佐竹氏や大掾氏との外交交渉を行っていたことが判明する[16]。
出典
- ^ 高橋 2015, p. [要ページ番号], §. 『常陸平氏』再考.
- ^ 安貞元年12月26日付「鎌倉将軍家藤原頼経御教書案」(「常陸国総社宮文書」)
- ^ 高橋 2015, §. 『常陸平氏』再考.
- ^ 小森 2015, p. [要ページ番号].
- ^ 大澤 2015, p. [要ページ番号].
- ^ 小森 2015.
- ^ 中根 2019, p. 36-42.
- ^ 中根 2019, p. 68-71.
- ^ 中根 2019, p. 93-96.
- ^ a b 中根 2019, p. 119-129.
- ^ 中根 & 2015a 2019, p. 92-107.
- ^ 中根 2019, p. 159-160・164.
- ^ 中根 & 2015b 2019, p. 175-178.
- ^ 中根 2019, p. 167-170.
- ^ “石田三成腹心、島左近の書状発見 東京大など”. 日本経済新聞. (2016年7月1日) 2020年5月9日閲覧。
- ^ 中根正人「嶋清興書状にみる天正十八年の大掾氏と豊臣政権」『常陸大掾氏と中世後期の東国』(岩田書院、2019年) ISBN 978-4-86602-075-4 P239-248.
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