江戸通泰とは? わかりやすく解説

江戸通泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/06 19:09 UTC 版)

 
江戸通泰
時代 戦国時代
生誕 文明18年(1486年[1]
死没 天文4年7月12日1535年8月10日[2]
別名 彦五郎[3]
戒名 梁山道棟[3]
官位 従五位下但馬[3]
主君 佐竹義舜
氏族 常陸江戸氏
父母 父:江戸通雅、母:松嶺[3](法名、小野崎朝通娘[3][4]
兄弟 通則[4]通泰、通廣[4]、雅胤[4]
鹿島景幹室[4][5]、完戸政里室[4]
正室:芳賀高経[3]
忠通、男子、通澄、女子(願入寺如空)[6]
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江戸 通泰(えど みちやす)は、戦国時代武将常陸江戸氏6代当主。常陸国水戸城主。

出自

常陸江戸氏は常陸の国人藤原北家魚名流とされる藤原秀郷の後裔・川野辺氏の支流である那珂氏の傍流。

略歴

文明18年(1486年)、江戸通雅の子として誕生。永正7年(1510年)、父が没すると兄・通則も先だって死去していたため家督を継いだ[7]

佐竹義舜に従属して常陸南部に勢力を広げる。永正の乱では義舜と共に足利高基古河公方に擁立して小田氏などと戦った。大永4年(1524年)には大掾忠幹や鹿島氏重臣・松本政信(右馬)と結んで鹿島義幹を攻め義幹を下総国に追放、通泰の姪婿・通幹(大掾忠幹の実弟)を鹿島氏当主に送り込み[8]鹿島郡進出を図った。

天文元年(1532年)、大洗の小幡義清を滅ぼし、その城を奪っている[9]。しかし、鹿島郡への進出は後に大掾氏と敵対したために、その野望を十分に果たす事は出来なかった。

天文4年(1535年)、死去。享年50。

脚注

  1. ^ 天文4年(1535年)に50歳で死去していることから、生年は逆算して文明18年(1486年)と思われる。
  2. ^ 『史料綜覧』第9編之909 732頁
  3. ^ a b c d e f 『常陸三家譜』
  4. ^ a b c d e f 『常陸史料』
  5. ^ 『鹿島治乱記』
  6. ^ 『新編常陸国誌』
  7. ^ 大日本史料』第9編之2 948頁
  8. ^ 『史料綜覧』第9編之909 465頁
  9. ^ 『史料綜覧』第9編之909 670頁

出典

  • 『常陸三家譜』
  • 『常陸名家譜』
  • 『常陸史料』
  • 『鹿島治乱記』
  • 『新編常陸国誌』
  • 『江戸系図』




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