岩城氏
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岩城氏(いわきし)は、武家・華族だった日本の氏族。平安時代末に陸奥国岩城郡の豪族として発祥し、鎌倉時代以降岩城郡内で一族分立したが、15世紀にその中の白土氏が一族を統合して戦国大名化し、豊臣政権下では岩城12万石を安堵された[2]。関ヶ原の戦い後に徳川氏より除封されたが、大阪の陣後には出羽亀田藩2万石の外様小大名に封じられ[2]、維新後には華族の子爵家に列せられた[3]。
注釈
出典
- ^ 『岩城家譜』
- ^ a b c 世界大百科事典 第2版日本大百科全書(ニッポニカ)『岩城氏』 - コトバンク
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 329.
- ^ 樋口知志『前九年・後三年合戦と兵の時代』(吉川弘文館、2016年)
- ^ a b c d 樋口 2016.
- ^ 高橋崇『蝦夷の末裔 : 前九年・後三年の役の実像』中央公論社〈中公新書〉、1991年。ISBN 4121010418。国立国会図書館書誌ID:000002141869 。
- ^ 樋口知志「藤原清衡論(上)」『Artes liberales』第82巻、岩手大学人文社会科学部、2008年7月、93-115頁、CRID 1390290699641601024、doi:10.15113/00013205、ISSN 0385-4183。
- ^ 網野善彦「桐村家所蔵『大中臣氏略系図』について」(『茨城県史研究』48号、1982年)
- ^ 新田完三 1984, p. 242.
- ^ a b 藩名・旧国名がわかる事典『亀田藩』 - コトバンク
- ^ 新田完三 1984, p. 244.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
- ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 151.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 261.
- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 260.
- ^ 仙台藩一門/宮床伊達家・伊達村興の子。
- ^ 仙台藩一門/亘理伊達家・伊達宗賀の子。
- ^ 仙台藩一門/亘理伊達家・伊達宗恒の子。
- ^ 美濃郡上藩主・青山幸宜の四男。
岩城氏
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領内支配を固めた岩城親隆・岩城常隆父子は文明17年(1485年)、佐竹氏と佐竹一門の山入氏らが争っている佐竹の乱に介入。常陸国車城を攻略し、常隆は佐竹領侵略の拠点として、車城に弟の車隆景を入れ車氏を名乗らせた。延徳4年(1492年)に、義藤が病死すると、岩城常隆が仲介役になり、和議が成立するが、氏義が太田城の明け渡しの条件を呑まずに再び佐竹義舜に背く。その後は佐竹氏を支援し、佐竹の乱鎮圧に貢献している。 永正3年(1506年)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発すると、足利政氏は奥州諸氏に加担を求める。岩城常隆は当初、いずれにも加担せず、両者の和解を進めたことが、後に足利政氏派となる。 また、永正7年(1510年)に岩城常隆 (下総守)は、佐竹義舜と江戸通雅・江戸通泰父子との新しい盟約を仲介している。同年、佐竹氏が白河結城氏に奪われた依上保の地を白河結城氏の内紛に乗じて奪回した際に常隆は佐竹義舜に支援を行っている。岩城常隆は、娘を佐竹義舜に嫁がせたため、佐竹氏とは同盟関係を築いていた。
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