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伊達宗恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:41 UTC 版)

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伊達宗恒
時代 江戸時代
生誕 享和3年10月22日1803年12月5日
死没 文久元年3月18日1861年4月27日
別名 兵力、藤五郎、安房、播磨
墓所 大雄寺(宮城県亘理郡亘理町
主君 伊達斉宗斉義斉邦慶邦
仙台藩
氏族 伊達氏
父母 父:伊達宗賀
兄弟 宗恒義隆
邦実、三沢邦為(三沢氏へ養子)、邦規
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伊達 宗恒(だて むねつね)は、江戸時代後期の仙台藩一門第二席・亘理伊達家第12代当主。

生涯

享和3年(1803年)、亘理伊達家第11代当主・伊達宗賀の子として生まれる。幼名は兵力文化12年2月1日、仙台城元服し、藩主伊達斉宗偏諱を受けて宗恒と名乗る。[1]

文政4年(1821年)4月11日、伊達宗秩の娘と婚礼。[2]文政7年(1824年)5月5日、父宗賀の隠居により家督を相続して亘理邑主となる。

文政10年(1827年)11月、病臥中の藩主斉義を見舞うために江戸に出府するも、斉義は27日に死去した。[3]

文政11年(1828年)1月28日、藩主斉邦の家督相続御礼言上の際に、江戸城で将軍徳川家斉に拝謁を賜る。[4]

天保2年(1831年)嫡男兵力(邦実)と前藩主斉義の息女佑姫が婚礼。天保7年(1836年)、亘理伊達家初代・成実の父実元の霊廟を菩提寺の大雄寺に建立する。

弘化3年(1847年)病のため嫡男兵力が番代(当主代行)することを藩に願い出て許された。[5]

弘化4年(1848年)12月、隠居して家督を邦実に譲る。文久元年(1861年)3月18日死去。享年59。

出典

  1. ^ 亘理町史
  2. ^ 亘理町史
  3. ^ 亘理町史
  4. ^ 續徳川實紀
  5. ^ 亘理町史

参考文献

  • 『仙台人名大辞書』
  • 『宮城県姓氏家系大辞典』
  • 『續徳川實紀』
  • 『亘理町史』



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