亘理伊達家
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亘理伊達家 | |
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本姓 | 称・藤原氏 |
家祖 | 伊達実元 |
種別 |
武家 華族:男爵 |
出身地 | 陸奥国伊達郡 |
主な根拠地 |
陸奥国亘理郡小堤 胆振国有珠郡紋鼈 |
著名な人物 |
伊達成実 伊達邦成 伊達佳内子 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
亘理伊達家(わたりだてけ)は、仙台藩主・伊達氏の分家。仙台藩一門第二席。もとは亘理氏であった涌谷伊達家(一門第四席)とは別の家である。
概要
伊達宗家第14代当主・伊達稙宗の子・実元を家祖とし、その子の成実が慶長7年12月(1603年2月)に亘理郡亘理城主となったのが始まりで、江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領した。
第14代当主・邦成は戊辰戦争の敗北にともない所領をわずか数百分の一まで削減され、数百名の家臣の生活のために自ら家中を率いて北海道に移住し、現在の伊達市を開拓した。明治25年(1892年)にはその功を認められて男爵位を授けられ華族に列した。伊達市と旧領の亘理・山元・新地の三町は、「ふるさと姉妹都市」として提携関係にある。
亘理伊達家の所領
太字は全村拝領
- 亘理郡:23か村(小堤・高須賀・中泉・牛袋・十文字・田沢・上郡・下郡・神宮寺・榎袋・蕨・鷺屋・高屋・鹿島・長瀞・吉田・八手庭・大平・小平・鷲足・山寺・浅生原・高瀬)
- 宇多郡:8か村(谷地小屋・福田・埒木崎・真弓・杉目・小川・大戸浜・今泉)
- 伊具郡:2か村(小斎・丸森)
- 本吉郡:5か村(気仙沼・平磯・歌津・清水浜・柳津)
歴代当主
- 伊達成実
- 伊達宗実 - 伊達政宗の九男
- 伊達宗成
- 伊達基実
- 伊達実氏(宗氏) - 岩出山伊達宗敏の二男。宗成の婿
- 伊達村成
- 伊達村実
- 伊達村純
- 伊達村好
- 伊達村氏
- 伊達宗賀
- 伊達宗恒
- 伊達邦実
- 伊達邦成 - 岩出山伊達義監の二男。邦実の婿。明治25年(1892年)北海道開拓の功により男爵
- 伊達基
- 伊達成勲
- 伊達廉夫 - 大洲藩主加藤泰秋の六男。基の婿。有珠郡伊達町第4代町長(1943年 - 1946年)
系図
伊達稙宗 | |||||||||||||||||||||
実元 | |||||||||||||||||||||
成実1 | |||||||||||||||||||||
宗実2 | |||||||||||||||||||||
宗成3 | 中島宗常 | 伊東重定 | |||||||||||||||||||
基実4 | |||||||||||||||||||||
実氏5 | |||||||||||||||||||||
村成6 | |||||||||||||||||||||
村実7 | |||||||||||||||||||||
村純8 | 村好9 | ||||||||||||||||||||
村氏10 | 福原資氏 | ||||||||||||||||||||
宗賀11 | |||||||||||||||||||||
宗恒12 | 岩谷堂伊達義隆 | ||||||||||||||||||||
邦実13 | 三沢邦為 | 岩谷堂伊達邦規 | |||||||||||||||||||
邦成14 | |||||||||||||||||||||
基15 | |||||||||||||||||||||
成勲16 | |||||||||||||||||||||
廉夫17 | |||||||||||||||||||||
逸話
1868年の戊辰戦争の際、旧幕府側の仙台藩に新政府軍の軍勢が迫る中、藩主一門の亘理伊達家当主は現在の山元町の農家の若者であった長左エ門と彦左エ門の2人を和平の使者に任命。現在の福島県境に陣を構える新政府軍へ向かわせた。しかし、新政府軍は2人を怪しみ、彦左エ門を人質に取った。新政府軍は長左エ門に「亘理伊達家の重臣を連れて来るよう」命じ、期限までに戻らなければ彦左エ門を斬首すると告げた。長左エ門は「必ず戻ってくるからな。俺を信じてくれ」と、駆け出した。
その頃、藩内では抗戦派と新政府軍に従う恭順派が激しく対立。答えが出ないまま期限は過ぎてしまう。彦左エ門は処刑場に引き出されるが、嘆願の結果、3日の猶予が与えられた。藩の意見は恭順[1]に傾き、長左エ門は重臣らとともに再び新政府軍の陣を訪れた。彦左エ門は解放され、休戦交渉が始まった。
それから152年後の2020年、山元町教育委員会は「人を信じ合う気持ちを学び取ってほしい」と、郷土を戦火から守った2人の若者の友情についての話を副読本に収録した[2][3]。
参考文献
- 『山元町誌』(宮城県亘理郡山元町、1971年)
- 『亘理町史』上巻(宮城県亘理郡亘理町、1975年)
- 伊達宗弘・伊達君代『仙台藩最後のお姫さま 北の大地に馳せた夢』(新人物往来社、2004年)
脚注
- ^ “恭順とは”. コトバンク. 2020年12月28日閲覧。
- ^ “必ず戻るからオレを信じて…152年前に仙台藩で「本当にあった走れメロス」”. 讀賣新聞オンライン. (2020年12月28日) 2020年12月28日閲覧。
- ^ “長左エ門 彦左エ門 - 戊辰戦争の使者(山元町) - 命懸け無血開城へ走る”. 河北新報 ONLINE NEWS. (2020年7月10日) 2021年1月23日閲覧。
関連項目
- 高橋農場 (北海道伊達市) - 伊達基の依頼により高橋是清が創設した大規模農場
- 大雄寺 (北海道伊達市) - 亘理伊達家の菩提寺。亘理から後を追って移転した。
亘理伊達家
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「独眼竜政宗の登場人物」の記事における「亘理伊達家」の解説
伊達成実(だて しげざね) (時宗丸 → 伊達成実) 演:三浦友和(少年時代:山上隆) 政宗の家臣。政宗の従弟で、輝宗の従弟にも当たる。先述の通り、政宗の異名・「独眼竜」の命名者とされる。豪快な猛将で、「殿(政宗)の為ならいつでも死ねる」と豪語し、政宗の天下獲りの為に不惜身命の働きをする。幼少時、政宗と共に虎哉の元で学んだ仲である。 幼い頃は一歳年上の政宗に学問では敵わなかったが、線が細く片目が不自由な政宗より体格も良く武芸にも優れ、彼の方が跡取りだと間違われる事もあり、一時政宗の元から遠ざけられる。 その後、政宗の家督相続を機に父・実元より家督を継ぎ、藤五郎成実を名乗る。人取橋の合戦の功名により二本松城を与えられるが、その後国替えで角田城主となる。 主戦論者で、小田原参陣の是非を問う評定では綱元と共に徹底抗戦を主張。お東の方の諌めも一笑に付すなど、傲慢不遜な所も多々見られた。それ以降、家臣の待遇に関する不満に加え、上方で風流三昧の貴族趣味生活を送る政宗の姿が彼の目には武人の誇りを忘れたかのように見え、暫し政宗と対立、ついに綱元と太閤の賭け将棋が元で政宗と口論となり一時期相州・糟谷に逐電。その際に角田城を召し上げられ、妻子、家臣は討ち死にする。 上杉景勝との合戦の際に帰参を果たし(第36話)、石川昭光の組下となり、やがて亘理城を賜る。自身の器量を自覚して野心を捨て、天下泰平のために徳川家に尽くそうと思い至った政宗を、「殿は偉い」と称えつつ、「先が見えすぎるというのもつまらない」とも述べていた。政宗に再婚を勧められるが固辞し、代わりに政宗の子の一人を養子にしたいと申し出、政宗に九男の喝食丸(後の宗実)を養子とすることを約束させた。また景綱の嫡子左門を息子のように目をかけていた。 伊達実元(だて さねもと) 演:竜雷太 成実の父、晴宗の弟。輝宗の叔父で、政宗からは大叔父かつ義叔父にあたる。人徳に厚く、一門の首座として政宗の後見に当たり、死の床で「『敢えて火中の栗を拾う勿れ』と政宗殿に申すがよい」と成実に言い残し、成実には小十郎と共に政宗の両脇を固め、伊達家の興隆に尽くすよう遺言を残した。彼が死んだときには成実の胸中を気遣い、政宗は愛姫との宴を取りやめた。 本来は越後上杉家へ養子に出されるはずだったが、それがもとで起こった伊達家の内紛「天文の乱」によりその話は反故となったという過去を持ち、そのことは臨終を迎えた実元の口から語られる。 登勢(とせ) 演:五大路子 成実の正室。亘理家より嫁ぐ。成実との間に男子1人、女子1人と2人の子供(演:内田崇吉 / 真嶋彰子)をもうけている。大内定綱が捨てた城で「八百人斬り」を断行したことを気に病んだ政宗を成実が城に連れて来たときには成実の妻として政宗をもてなした。成実の逐電により政宗は矢代兵衛に命じて角田城を召し上げさせたが、これを阻止すべく抗戦し、落城前に2人の子供と共に自害。 羽田右馬助(はねだ うまのすけ) 演:河西健司 成実の家臣。成実の出奔後、成実の居城・角田城が攻撃された際に登勢達と共にこれに抗戦し、討死した。 綿貫源吾(わたぬき げんご) 演:木場剛 出奔した成実の下に出向き、角田城落城の様子を報告した。
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