戦国時代中期から安土桃山時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:07 UTC 版)
「岩城氏」の記事における「戦国時代中期から安土桃山時代」の解説
岩城氏15代当主・岩城重隆の代になると、近隣の相馬氏や田村氏との抗争が激化し、さらに伊達氏・蘆名氏などの新興勢力が多数乱立した上、佐竹氏との同族化のため、岩城氏の影響力は相対的に目立たなくなった。重隆は陸奥守護・伊達稙宗と稙宗の婿・相馬顕胤の圧力を受けて、娘である久保姫を伊達晴宗に嫁がせ、その嫡男である親隆を養嗣子として迎えた。天文11年(1542年)からの伊達氏の内訌・天文の乱に際しては遠交近攻の策をとり、稙宗派の田村氏や相馬氏と争う形になった。親隆の時代には勢力を強めた佐竹義昭・義重父子との抗争に苦しめられ、佐竹氏から室を迎えたものの親隆治世の末期と子・常隆の代には一時佐竹氏に家中の主導権を握られる状況になった。常隆の代は父・親隆の実弟である伊達輝宗とその子・政宗が南奥で勢力を増したため、岩城氏もその圧迫に悩まされることになった。政宗の正室・愛姫は岩城氏の宿敵である田村氏の娘であったため、常隆は伊達氏より離反し佐竹氏との関係を強めるが、政宗が蘆名氏を破って南奥を制覇すると、再び伊達氏と接近した。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が勃発すると、岩城常隆は小田原に参陣することで、所領を安堵された。常隆は小田原征伐直後に病死し、子・政隆も幼少であったため、佐竹義重の三男・岩城貞隆が岩城氏を継いだ。 貞隆は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで当初は東軍方になったが、実兄・佐竹義宣の命に従って、徳川家康の上杉景勝征伐に参加しなかったため、所領(現在の浜通り夜ノ森以南)12万石を没収される。この頃、岩城氏の一部が、紀伊半島の白浜へ移住し、現在の南紀白浜地区を最初に開拓した。白浜の岩城氏の地位は定かではないが、士族として明治維新を迎えている。維新後、白浜岩城氏の数家が、屯田兵として北海道へ渡り、愛別町、白滝村を開拓した。
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