戦国時代の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
当時から謙信の死は相当な衝撃を与えたようである。謙信の葬儀は3月15日に執り行なわれたが、このときのことを『北越軍談』はこう記している。 家門・宿老・侍隊将・奉行・頭人・近習・外様、出棺の前後を打囲て行列の姿堂々たれ共、獅竜の部伍に事替り、衆皆哭慟の声を呑み、喪服の袂を絞りければ、街に蹲る男女老若共に泪止め兼ねたり。彼五丈原の営中、赤星(諸葛亮)落て蜀軍傾覆するが如く、春日山の郭内は云にや及ぶ、城下に来り集る将士、宛然航路に楫を失ひ、巨海の波に漂ふに斉し。 — 『北越軍談』 なお、戦闘では強さを発揮した謙信が天下を取れなかった理由として、越中の一向一揆に手間取ったことも挙げられる。同じく北陸の大名であった朝倉氏も加賀の一向宗に悩まされ地盤を越えた戦略を取ることが出来なかった。
※この「戦国時代の評価」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「戦国時代の評価」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。
- 戦国時代の評価のページへのリンク