戦国時代へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 05:05 UTC 版)
応仁の乱の前後から、守護大名同士の紛争が目立って増加した。それに歩調を合わせるように、国人層の独立志向(国人一揆など)が顕著に現れるようになった。これらの動きは、一方では守護大名の権威の低下を招いたが、また一方で守護大名による国人への支配強化へとつながっていった。そして、1493年(明応2年)の明応の政変前後を契機として、低下した権威の復活に失敗した守護大名は、守護代・国人などにその地位を奪われて没落し、逆に国人支配の強化に成功した守護大名は、領国支配を一層強めていった。 こうして室町期の守護のうち領国や家中の統一に成功した守護や、守護家に代わり地域支配を成し遂げた守護代・国人は、独自の領域支配や軍事・外交的行動を行う戦国大名へと変質・成長し、戦国大名の出現をもって「戦国時代」の時代呼称が行われている。 戦国期においても室町将軍体制は一定の影響を保っており、室町将軍の御分国であった畿内や西国には守護家出身の戦国大名が多く、東国には駿河今川氏や甲斐武田氏など守護大名出自の戦国大名家のほか、非守護家でありつつも広域支配を行った後北条氏や、関東・東北地方では郡単位の地域勢力が分立するなど地域的特徴をもつ。戦国期における守護権威の位置づけについては諸説あるが、おおむね一定の影響力はもちつつも、戦国大名は室町将軍に認証される守護権威に左右されない独自の大名権力を有していた点も指摘される。また、斯波氏の一家臣から正式の守護に転じて数代を経た越前朝倉氏のような少数例も存在する。 それに対応する形で、守護は国府付近に構えていた平地の守護所を、山城およびその山麓の館に移し防衛力を強化した。戦国時代は下位の者が上位者に取って代わる下剋上の時代とされているが、実際にはかなりの守護大名も城郭を構えて戦国大名への転身を遂げていた。
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