戦国時代の那波氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 14:29 UTC 版)
15世紀中頃に山内上杉氏の被官となった。那波宗俊は那波城や今村城を築城している。しかし近隣の由良氏と抗争し、宗俊は成田氏や厩橋長野氏・佐野氏らと天文10年(1541年)に由良泰繁を攻撃した。「那波氏系譜」・「新田伝記」ではこの戦いで宗俊が戦死したと伝える。上杉憲政が平井城に逼塞(ひっそく)すると宗俊は後北条氏に従った。永禄3年(1560年)に上杉謙信によって那波城が陥落、那波氏は上杉氏に降伏した。これにより赤石城や那波氏領は上杉方の由良氏のものとなった。この時の城主は「上杉家御年譜」では宗俊といい、嫡男次郎(顕宗)を人質に謙信に降伏したがその後死去したという。一方『日本城郭大系』[要文献特定詳細情報]では、那波氏は宗政(宗継)・宗俊と続いて宗俊の弟・宗元のとき、那波落城で上杉方に敗れ、宗元の長男・宗安は浪人し武田氏へ仕え、次男の次郎は上杉方に人質となったとしている。 上杉氏の人質となった次郎は元服し那波顕宗と名乗った。この際に北条高広の妹を娶っている。その後は後北条氏・上杉氏の間で復権を狙ったとみられ、『伊勢崎市史』[要文献特定詳細情報]では永禄9年(1566年)に由良成繁が後北条側に付いたのを機に顕宗が旧領に復帰したとする。ただし赤石城は由良方とされ、那波氏は今村城を拠点としたという。一方『玉村町誌』[要文献特定詳細情報]は、天正2年(1574年)に上杉方が離反した由良氏の赤石城を攻めるため、顕宗を今村城に置いたのが那波氏の旧領復帰だとする。以後は姻戚の北条高広と行動を共にしたらしい。そして那波氏が後北条氏側に投じたのは天正11年(1583年)で、滝川一益の上州撤退後のことであった。このとき上杉景勝についた北条高広とは決別している。 後北条氏が豊臣秀吉の小田原征伐で没落すると、那波氏は上杉景勝についたが、天正19年(1591年)に顕宗は九戸政実の乱で討死して家は断絶してしまった。 ただし那波の血は後世に残っており、顕宗の息子俊広が、上杉氏家臣で大江氏一族の安田能元の養子となり、のちに安田氏を継いでいる。
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