戦国時代まで
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8世紀までに作られたと推測され、文献初見は『続日本紀』の天平神護2年(766年)11月1日である。郡の中では南小泉遺跡に集落が形成され、平安時代、中世まで集落・町があった。その周りの広瀬川と七北田川にはさまれた地域には、条里制が敷かれ、水田が広がっていた。陸奥の国府は、おそらく天平宝字6年(724年)に名取郡の郡山遺跡がある所から宮城郡北部の多賀(今の多賀城市)に移った。多賀城の外には都市的な街区が広がった。陸奥国分寺・国分尼寺は、南小泉遺跡に近い位置に置かれた。延暦4年(785年)に東部に多賀郡と階上郡を分けたが、しばらくして元に復した。『和名抄』が記す郷の数は10で、陸奥国の中では白河郡の17と磐城郡の12に次いで多い。 平安時代の郷 赤瀬郷 磐城郷 科上郷 丸子郷 大村郷 白川郷 宮城郷 - 仙台市宮城野区苦竹 余戸郷 - 仙台市宮城野区岩切 多賀郷 - 多賀城 柄屋郷(栖屋郷の誤字説あり) 鎌倉時代にも多賀国府は存続したが、中心地はやや西の岩切付近に移ったと考えられている。鎌倉時代の初めに伊沢家景が陸奥国の留守職として国府で政務をとり、留守氏を名乗って宮城郡北部に根を下ろした。 南北朝時代には、南北両朝や北朝内部の対立で多賀国府が争奪の的になった。国府が位置する宮城郡の北部は留守氏が占めていたが、その勢威は、国府から陸奥国全土の武士に号令をかける北畠顕家や奥州探題諸氏と肩を並べるようなものではなかった。郡内の南部・西部の勢力としては、南朝に属して戦った大河戸氏、国分寺郷に拠った国分氏、陸奥介氏の後裔八幡氏が知られる。 国府が機能を失い、奥州探題大崎氏が北に去った後、戦国時代の宮城郡は南部が国分氏、北部が留守氏の支配地に分かれた。やがて伊達氏の影響力が南から伸び、両氏とも伊達氏から養子を迎えてその一門に組み込まれた。伊達氏から入った留守政景と国分盛重は、伊達政宗の部将として活躍した。豊臣秀吉が全国を統一すると、奥州仕置によって留守氏は取り潰し、国分氏は伊達氏の家臣としてそのままとなり、結果的には両人とも正式に伊達氏の家臣となった。その後、留守政景は政宗によって領地を移され、国分盛重は追放され、留守・国分ともに宮城郡の土着勢力ではなくなった。戦国時代の宮城郡は政宗の勢力の北限に近かったが、奥州仕置を経て伊達氏の領国が北にずれると、領国の中央やや南寄りに位置するようになった。
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戦国時代まで
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室町時代までの鳥取市は、低湿地に覆われており、久松山の山麓近くを蛇行して流れていた。その頃は『湊川』と呼ばれることもあったらしい。16世紀半ばに鳥取城が築かれると、湊川(袋川)は西側に対する重要な防御ラインとなった。
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戦国時代まで
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城の創建年代は不明であるが、因幡の国人領主・志加奴氏(鹿野氏)が居住していたと言われる。 『陰徳太平記』によれば、1544年(天文13年)初夏、因幡に侵攻してきた尼子晴久によって攻撃され、城主の鹿野入道以下300余名が討ち死にしたという。 1563年(永禄6年)には武田高信の攻撃を受けた因幡守護・山名豊数が守護所である布勢天神山城を捨てて鹿野城に退いている。
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戦国時代まで
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中世には都市の発達に伴い、年貢や物資の輸送の必要性から陸上交通が整備され、定期市なども開かれた。これに伴い、港や廻船も整備され、海上交通や海上輸送も行われるようになる。交通の要所には、幕府や戦国大名や有力寺社などが関を設置して、関銭が徴収された。
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戦国時代まで
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金剛院は古くから修験道の基地として知られていた。上杉謙信と北条氏康・北条氏政による越相同盟(永禄12年・1569年)に際しては、金剛院の僧が交渉役を勤めた。『関八州古戦録』(『関東古戦録』)によると、この同盟締結にあたり金剛院の修験者が北条方の使者として立てられ、春日山城での交渉により、氏康の末子北条氏秀を人質として差し出すことなどを取り決めたという。 天正6年(1578年)前後の記録によると、寺内に寺1(廃寺)、末寺1、門寺2とある。天正壬午の乱(天正10年・1582年)では、進攻してきた北条軍により、沼田城もろとも包囲を受けた。天正12年(1584年)には住職の了雲が隠居するため、沼須村に正福寺を創建した。
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戦国時代まで
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室町時代は山名氏のちに一色氏が守護となるが、戦国時代の天正7年(1579年)に織田信長軍の明智光秀や細川幽斎(長岡藤孝)とその子忠興らの丹後平定で一色氏は降伏。豊臣秀吉の時代は長岡氏を経て細川父子が支配した。水本邦彦は、江戸時代後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『丹哥府志(たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している。
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