豊臣秀吉の時代
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天正10年(1582年)6月の本能寺の変で信長と信忠が殺害された後は、豊臣秀吉に従い、伊勢津城15万石を領して「津侍従」と称された。天正11年(1583年)には甥・織田信孝らと対立し、柴田勝家や滝川一益を攻略している。 天正18年(1590年)、小田原征伐のときに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願したために秀吉の怒りをかい、文禄3年(1594年)9月に至って改易された。改易の理由として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにしたためとされる。改易後は剃髪して老犬斎と号し、京都の慈雲院に隠棲したという。 その後、近江国内に2万石を与えられて秀吉の御伽衆となり、慶長3年(1598年)6月には丹波国氷上郡柏原(兵庫県丹波市柏原)3万6000石を与えられる。
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