厩橋長野氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 15:13 UTC 版)
厩橋宮内大夫の一族は厩橋城(のち前橋城と改称)を築き、総社の長尾氏と対抗した。この厩橋城主となった長野氏は、『前橋風土記』に歴代城主として初代・固山宗賢(長野左衛門尉)、2代長野道安、3代道賢、4代賢忠と記載される。黒田基樹の論文(「戦国期上野長野氏の動向」)は、固山宗賢(長野左衛門尉)を長野為業とし、2代顕業(聖仲)、3代賢忠とし、実際に厩橋を本拠地としたのは顕業の時代とする。大永7年(1527年)の厩橋宮内大夫はこのうちの誰かとみられる。『日本城郭大系』は長野方業(方斎、賢忠)とみなす。『箕郷町誌』は長野方業を指すとし、『前橋市史』は天文10年(1541年)にみえる賢忠が該当するといい、『群馬県史』は宮内大夫を方業(方斎)の子かとした上で厩橋2代の道安のこととする。『箕輪城と長野氏』は道賢かと指摘する。黒田論文は、宮内大夫は賢忠で箕輪長野氏を継いだ方業の実兄でもあるとする。 また、厩橋東隣の大胡郷へ厩橋長野氏は進出し、大胡氏に代わって大胡を支配した。大胡氏を一族化したともいう。ただし大胡の長野氏の名前は不明である。 天文10年(1541年)厩橋城主長野賢忠は、深谷上杉憲賢・那波宗俊・成田親泰・佐野昌綱とともに金山城主横瀬泰繁を攻めて敗退した。その後、越山してきた長尾景虎に従う。しかしその子・彦太郎は永禄3年(1560年)に陣中で誅殺(ちゅうさつ)され、賢忠もすぐ没したという。このとき彦太郎の伯父は大胡を領していたが共に殺されたという。黒田論文は賢忠が永禄年間に没したとするのは、彼の代に厩橋長野氏が滅んだとする誤認に由来するもので、賢忠は天文10年の横瀬氏攻撃後ほどなく没し、道安―道賢―彦九郎(彦太郎・藤九郎はともに彦九郎の誤記・誤伝とする)と継承されたと説く。永禄4年(1561年)の「関東幕注文」には「厩橋衆」として長野藤九郎・彦七郎がみえる。なお「厩橋衆」所属の国人が他より少なすぎるため、上杉謙信の上野進攻時に厩橋長野氏が後北条方につき上杉の攻撃を受けて降伏し、衆が解体されたのではとも指摘される。このあと厩橋長野氏・大胡長野氏は謙信により厩橋城を没収され没落した。
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