謙信時代の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 06:45 UTC 版)
大永4年(1524年)もしくは享禄3年(1530年)、北条氏の家督も務めていた安田氏の安田広春が没すると、北条氏は養子の北条高広、安田氏は養子の安田景元がそれぞれ継承した。 異説として、広春は北条氏・安田氏の庶流から上杉氏の奉行人に抜擢された「毛利(大江)五郎広春」であり、高広・景元とは系譜上無関係な存在(安田氏の娘婿であった可能性はある)と位置付けた上で、北条丹後守某の没後にその子であり若年の松若丸が家督を継いで先代の北条輔広(丹後守の父)が後見したが、この松若丸が天文3年(1534年)迄に元服して「高広」と称した、とする説がある。高広の菩提寺である専称寺には、輔広と高広が祖父と孫の間柄である記録はあるものの、同寺に共に寄進の記録がある広春と高広の関係を示す記録は存在していない。 高広は越後国の戦国大名である長尾氏に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐国の武田信玄と通じ、居城の北条城において主君・長尾景虎(上杉謙信)に対し反乱を起こした。しかし翌年、長尾軍の反攻を受け高広は降伏した。その後は景虎に再び仕え、奉行として活躍した。 永禄6年(1563年)に上野厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。高広が武将として優れていたのが伺える。永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この際、同姓で一族と紛らわしいため北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した。高広側は元の姓である「毛利」を用いた。しかし翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれ両勢力が和解した。宙に浮いた立場となった高広は北条氏政の仲介の下、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として仕えた。 江戸初期成立の『加沢記』に拠れば、永禄12年(1569年)に上野国人・沼田氏で内紛が起こり高広の娘婿で沼田氏当主・朝憲が殺害された際、高広は沼田氏の家臣団の求めに応じ、朝憲の父の沼田顕泰(万鬼斎)とその子の沼田景義を会津に追放したとされる。しかし沼田氏内紛は上杉謙信が関東へ進出する以前とのことであり、沼田朝憲の室も当時の厩橋城主・厩橋長野氏出身と考証されている。高広と沼田氏は現在判明している史実において血縁関係ではない。
※この「謙信時代の動向」の解説は、「北条高広」の解説の一部です。
「謙信時代の動向」を含む「北条高広」の記事については、「北条高広」の概要を参照ください。
- 謙信時代の動向のページへのリンク